たして後に、御家新の姿が見えた。と、闇黒の奥で弦音《つるおと》、とたんに矢風、藤吉とっさに泥に寝た。間一髪、矢は傍の小石を散らしてかちり[#「かちり」に傍点]と鳴る。呼吸を潜めた藤吉の前へ、首尾を案じて男の影が、弓を片手に現れた。充分仕留めたつもりらしい、頭上立って、今や止めを刺そうとする。白刃一閃、そこを藤吉、足を上げて蹴る、起きる、暗いから所在《ありか》もよくは解らないが、猛然と跳りかかったら、運よく確《し》かと抱きついた。と思ったも束の間、敵もさる者、声も立てず顔の形にも触らせずにするり[#「するり」に傍点]と振り切る。倒れながらも藤吉袖口を握った。走り出す男。小兵の藤吉、橇《そり》のように引きずられた。が、指のかかりが抜けて、闇黒から出た男は一目算に闇黒へ消えた。泥にまみれた藤吉、伊兵衛を殺したのと同じ拵えの太短い矢を拾っては、今さらのように身顫いを禁じ得なかった。
「彼男《あれ》だ、俺にゃあもうわかってる!」
 会心の笑みが、泥だらけの藤吉の顔を綻ばせた。

      五

「や、親分、どうしましたえ。」
 佐平次が飛んで出た。
「転んだ。白痴《こけ》の一人相撲。面目ねえ。」
 鉄瓶の湯がちんちん[#「ちんちん」に傍点]沸いて、佐平次の心尽し、座蒲団が三つ並んでいた。洗足《すすぎ》をとった藤吉、気易に上り込んだ。宗十郎店は佐平次の住居。勘次彦兵衛はまだ来ていない。
「どうでした、御家新おそれいりましたか。」
「口を開かねえ。が、俺らにゃもうわかってる。」
「さいでございましょうとも。」
 言っているところへ勘次が帰って、屍骸は番屋へ引き取らせたと復命した。間もなく彦も顔を見せたが、これはえらく意気込んでいた。
「八百駒あ他行だったが――。」
「他行?」藤吉が聞き咎めた。「この荒れの夜中にか。」
「あい。それで土間を覗くてえと、親分、驚いたね、草加屋の杖がころがってた。」
「ふうむ。」
「どうもこりゃあ八百駒の仕事に違えねえ。同勢四人、揃えて乗り込んで待ちやしょうか。」
「まあ、待て。」
「だが、逃《ずら》かる。」
「なあに、ずら[#「ずら」に傍点]かりゃしねえ。」
「はははは。」佐平次が笑い出した。「彦さん、犯人は先刻こっちへ割れてますよ。ねえ親分。」
「え? ほんとでげすか。」
「勘弁ならねえ。」
 勘と彦とが同時に藤吉を見詰める。
「嘘をつくけえ!」藤吉は嘯《うそぶ》いた。
「逸見流弓術の名人、御家新。甚右衛門が嗅ぎ当てました。」と佐平次。
「そのことよ。」と藤吉しばらく瞑目していたが、「佐平次どん、筆を三本、紙が三枚、何でもいい、あったら出して筆にたっぷり[#「たっぷり」に傍点]墨を含ませて、銘々に筆と紙を渡してやんな。お前さんも筆を取って。」
 三人、膝に紙を伸べて、筆を持って、不思議そうに控えた。藤吉は手枕、横になっている。
「さ、みんな俺らの言うことを書くんだぞ。」
「勘弁ならねえが、」と勘弁勘次、「こちとら無筆だ。」
「勘、黙ってろ。」
「へえ。」筆の穂を舐めて三人は待っている。ところが藤吉、ぐう[#「ぐう」に傍点]ともすう[#「すう」に傍点]とも言わない。いや、そのうちぐうすう[#「ぐうすう」に傍点]言い出した。高鼾《たかいびき》である。
 三人が三人とも、やがて持てあます退屈。
 とうとう彦が、我慢し切れずに声を掛けた。
「親分え、もし、親分え。」
 勘次も和した。
「御家新とやらを押せえに出張《でば》ろうじゃごわせんか。」
 大欠伸《おおあくび》と一緒に身を起した藤吉、仮寝《うたたね》していたにしては、眼の光が強過ぎた。胡坐《あぐら》を揺るがせながら、縷々《るる》として始める。
「矢文の天誅[#「天誅」に傍点]は欺《まやか》しだ。なあ、真正の犯人がなんでわざわざ己が字を残すもんけえ。土台、あの矢が弓で射たもんなら、ああ着物を破いちゃあ身へ届くわけがねえ。それに、弓ならあんなに汚なく血が出やしねえや。顔《そっぽ》だって、もちっと綺麗に、歪《ゆが》んじゃいねえはず。ありゃあお前、弓矢じゃねえぜ、うんにゃ、矢は矢だが、背後から抱きすくめて手でこじりこせえたもんだ。その証拠を言おうか。仰向《おうのけ》の胸に直に立った矢が、見事二つに折れてたじゃあねえか。手で無理をしねえかぎり、矢が折れるってえ道あねえ。」
「しかし親分、」と彦兵衛、「その御家新は逸見流の――。」
「逸見流の矢は、もそっと長え。」藤吉は眼を閉《つぶ》ったまま、「関の六蔵|一安《かずやす》三十三間堂射抜の矢、あれだ。いやに太短えもんなあ。」
「へえい! するてえと?」
「往来で殺《や》ってあそこへ引いてった。すりゃこそ、提灯も履物も八百駒の物ばかりで、草加屋のは一つもねえ。」
「その理は?」
「決ってらあな。伊兵衛は八百駒へ行ってて先で嵐《
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