吹色の豚じゃ。己れ、そのうち、伝家一刀の錆にしてくれる。」
「月のねえ夜もありやす。一つ器用にさばきやしょう。」
痩浪人、遊人、そんじょそこらの長屋の衆、口ぐちにささやき合うのが、早くから釘抜連の耳にもはいっていた。だから、もっともらしく顰《しか》めた伊兵衛の死顔を見た時、藤吉は、ははあ、とうとう誰かがやったな、という頭がぴいん[#「ぴいん」に傍点]と来て、格別おどろかなかったわけである。しかし、考えに止まっているうちはともかく、眼と鼻の間でこう鮮かに手を下されてみると、仮りに仏の生前がどうあろうと、また事の起りは一種の公憤にしろ、藤吉の務めはお上向きに対しても自から別な活動《はたらき》を示さなければならなくなる。ところで、草加屋殺しの探索は、やさしいようでむずかしい。藤吉は考える。
何事もそうだが、すべて人殺しには因由《いわれ》に意《こころ》が見えるものだ。殺さなければならないほどの強いつよい悪因縁、これを籠《こめ》る犯人《ほし》のこころもち、これにぶつかれば謎はもう半ば以上解けたも同じことである。この人殺しのこころを藤吉は常から五つに分けていた。国事《おおやけ》に関する暗撃果合いや、新刀《あらもの》試し辻斬の類を除《ぬ》かした土民人情の縺れから来る兇行の因に五つある。物盗《ものとり》、恐怖、貪慾、嫉妬《やきもち》、それから意趣返しと。伊兵衛の場合はあきらかに物盗ではない。現にぎっしり[#「ぎっしり」に傍点]詰った鬱金《うこん》木綿の財布の紐を首から下げて死んでいるのでも目的《あて》が鳥目《ちょうもく》でないことは知れる。恐怖というのは途端場《どたんば》での命のやり取りをさすものだが、伊兵衛を誰が襲ったとも考えられない。嫉妬と言ったところで、これには髱《たぼ》がなければ話にもならない。しからば貪慾か、というに、これはその人を亡くすることによって利を獲るとの義だが、草加屋伊兵衛は独身を通した一酷な老爺、後継《あととり》はもとより親戚《みより》縁辺《よるべ》もない。いや、たった一人、あるにはある。甥が槍屋町に住んで八百駒という青物|担売《かつぎうり》を営んでいるが、これとても出入りはおろか節季紋日の挨拶さえなかったらしい。とはいえ、そこにある八百駒と字の入った小田原提灯が、今となっては藤吉いささか気にならないでもないが――まず、なんと言っても踏外しのないところが、第五の意趣返しであろう。そうだ、意趣返しに相違ない、と一旦は景気づいてもみるが、つぎの刹那、藤吉はまた手の着け場所のない無明《むみょう》の闇黒《やみ》に堕ちるのだった。
今日は六月末日、年の半期である。伊兵衛め、例によって元利耳を揃えろの、せめて利息だけは入れろの、さもなければ証文の書換えじゃのと、さんざ一日いじめ抜いて歩き廻ったことだろうが、してみるとこれは、そのいじめられた一人の仕業と決めてかかったところで、ここで困ることには、独り者の伊兵衛、普段から商売向きには人の手を借りたこともなければ藉したやつもないから、どこどこに貸金《かし》があって証文がどうなっているのか、今日はどっちを廻ったのか、肝心の本人がこうなっているとそこいらのことが一切わからない。ことに、異志を挾んでいた者が浜の真砂のそれならなくに目当ばかりたくさんあって星のなかからほし[#「ほし」に傍点]を指せというのと同一轍、洒落にはなろうが、さて骨だ。夜更けて帰宅《かえ》る金貸し老爺、何しに町筋を外れて木槌山のかげへ立寄ったろう? ほかで射殺してここへ運んだものか。それにしては提灯などが落ちているのが呑み込めない。それよりも、呑み込めないと言えば、そもそも何のために古めかしい飛道具なぞを持ち出したものか。それに、矢は二つに折れている[#「矢は二つに折れている」に傍点]。のみならず矢文の文字の天誅、これをそのまま受け入れていいか――。
抜いた矢を右手《めて》に、傷口を検めていた釘抜藤吉、つぎに、七転八倒を思わせる伊兵衛の死相を凝視《みつ》めながら、何思ったか急にからから[#「からから」に傍点]笑い出した。甚右衛門がぎょ[#「ぎょ」に傍点]っとして唸ったほど、折が折だけ、それは不気味な笑いであった。
「親分、臭えぜ。これ。」
勘次と二人で先刻から草を分けていた彦兵衛が、こう言って高下駄を拾って来た。安物のせん[#「せん」に傍点]の木の台、小倉の緒、麗々しく八百駒と焼印してある。藤吉はじっ[#「じっ」に傍点]と見ていたが、やがて誰にともなく、
「紛失物《なくなりもん》はねえかな――こう、なくなり物はよう――。」
勘次が答える。
「爺あよく杖をついて歩いてるのを見かけやしたが――。」
「そうそう、」佐平次が応じた。「あの鬼草の金棒は曲木《まがりぎ》の杖、評判でさあ。知らねえ者あございません。そう言えば
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