さまが付いている。こう思うと伝二郎は急に強くなったのである。
 女は啜《すす》り泣いている。そして何か言っている。聞きとれないほどの小声だった。が、だんだんに甲高《かんだか》くなっていった。けれど意味はよくわからなかった。女の言葉が前後|顛倒《てんとう》していて、ただ何か訴うるがごとく、ぶつぶつと恨みを述べているらしいほか、果して何を口説いているのか少しも要領《ようりょう》を得ないのである。動くという働きを失ったようになって、伝二郎は床のなかで耳を欹《そばだ》てていた。すると、女が、というより女の幽霊が、不思議なことを始めたのである。壁の一点を中心にしてその周《まわり》へ尺平方ほどの円を描きながら、彼女はいっそう明晰《めいせき》な口調で妙な繰り言をくどくど[#「くどくど」に傍点]と並べ出した。聞いて行くうちに伝二郎は二度びっくりした。そして前にも増してその一言をも洩らすまいと、じい[#「じい」に傍点]っとしたままただ耳を凝《こ》らした。びしょ濡れの女は裏の井戸から今出て来たばかりだと言うのである。
 安政《あんせい》二年卯の年、十月二日真夜中の大地震まで、八重洲河岸で武家を相手に手広く
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