するで、へい。」
「ま、気をつけて行くがよい。身共もそろそろまいるといたそう。町人、さらばじゃ。」
言い捨てて侍は歩き出した。気がついたように伝二郎は二、三歩跡を追った。
「お侍さまえ、もし、旦那さま。」
「何じゃ?」
懐手のまま悠然《ゆうぜん》と振り返った。その堂々たる男振りにまたしても逡巡《たじたじ》となって、
「お名前とお住宅《ところ》とをなにとぞ――。」
と伝二郎は言い渋った。
侍は上を向いて笑った。
「無用じゃ。」
と一言残して歩みを続ける。伝二郎は泥跳《はね》を上げて縋《すが》りついた。
「でもござりましょうが、それでは、手前どもの気が済みません。痛み入りまするが、せめておところとお苗字《なまえ》だけは――。」
「よし、よし、が、礼に来るには及ばんぞ。」
と歩き出しながら、
「大須賀玄内《おおすがげんない》と申す。寺島《てらじま》村河内屋敷の寮《りょう》に食人《かかりびと》の、天下晴れての浪々の身じゃ、はっはっは。」
あとの笑い声は、折柄の濃い戌《いぬ》の刻の暗黒に、潮鳴りのように消えて行った。と、それに代って底力のある謡曲《うたい》の声の歩は一歩と薄れて行く
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