のが、ぼんやり立っている伝二郎の耳へ、さながらあらたかに通って来るばかりだった。
家へ帰ったのちも、このことについては伝二郎は口を緘《かん》して語らなかった。ただ礼をしたいこころで一杯だった。ことに幾分でもあの高潔な武士の心事を疑《うたが》ったのが、彼としては今さら良心に恥じられてしょうがなかった。
「何と言っても儂は士農工商の下積みじゃわい。ああ、あのお侍さんの心意気がありがたい――。」
何遍となく、口に出してこう言った後、二、三日した探梅日和《たんばいびより》に、牛の御前の長命寺へ代々の墓詣りにとだけ言い遺して、丁稚《でっち》に菓子折を持たせたまま瓦町は書替御役所前の、天王様に近い養家清水屋の舗《みせ》を彼はふらりと出たのであった。
「怪《け》ったいな、伝二郎が、まあ急に菩提ごころを起いたもんや――。」
関西生れの養母は店の誰彼となくこう話し合っては、真からおかしそうに笑い崩れていた。
寺島村の寮は一、二度尋ねてすぐに解った。
河内屋という、下谷の酒問屋の楽隠居が有っているもので、木口も古く屋台も歪《ゆが》んだというところから、今は由緒《ゆいしょ》ある御浪人へ預け切りで、
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