く青山の方へ用達しに行った。その帰途《かえり》、近所の町組詰所へ立ち寄って、異な物を銜えた宿無犬のことを聞き、もしやと思って急いで帰宅《かえ》ってみると、案の定、出かける前に茹で上げておいた屍《むくろ》の一つ――多分お滝の――から頬の肉が失くなっていた。のみならず、あわてて詰所を出た時か、大切なおりんの呪縛《まじない》の紙を紛失しているのに気がついた。
落ち着かない心持で夜を待ったが、夜になってもおりんが来ないので、平兵衛は気が気でなかった。それでも、予定どおりに三つの釜の蒲鉾を仕上げて、極秘の混入《まぜ》物をすることも怠らなかった。おりんは今夜とうとう姿を見せなかった。呆然自失した平兵衛は、おりんを探すこころでよろめくように背戸口へ出たが――。ところで石と土の被せてある井戸の穴へどうして平兵衛が堕込《おちこ》んだか。またどうしてそのあとへ石と土とが直ったか。誰が手を下したか。謎である。永劫《えいごう》に解けない、これらの謎の鍵を握っていたかもしれない地上唯一の人間磯屋平兵衛も、この時はもう他界していた。おりんの呼び声でも聞いたとみえて、「おう、そこにいたか。今行く。」
とひとこと
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