いでいた。

      四

 往昔《むかし》まだ吉原が住吉町、和泉町、高砂町、浪花町の一廓にあったころ、親父橋から荒布《あらめ》橋へかけて小舟町三丁目の通りに、晴れの日には雪駄、雨には唐傘と、すべて嫖客の便を計って陰陽の気の物をひさぐ店が櫛比《しっぴ》しているところから江戸も文久と老いてさえ、この辺は俗に照降町と呼ばれていた。
 その照降町は小舟町三丁目に、端物ながらも食通を唸らせる磯屋平兵衛という蒲鉾《かまぼこ》の老舗《しにせ》があった。
 明暦大火のすぐ後、浅草金竜山で、茶飯、豆腐汁、煮締、豆類などを一人前五分ずつで売り出した者があったが、これを奈良茶と言っておおいに重宝し、間もなく江戸中に広まってそのなかでも、駒形の檜物《ひもの》屋、目黒の柏屋、堺町の祇園屋などがことに有名であった。また同じく金竜山から二汁五菜の五匁料理の仕出しも出て、時の嗜好《しこう》に投じてか、ひところは流行を極めたものだったが、この奈良茶や五匁の上所《じょうどころ》へ蒲鉾を納めて名を売ったのが、伊予宇和島から出て来た初代の磯屋平兵衛であった。
 当代の平兵衛は四代目で、先代に嗣子《よつぎ》がなかったとこ
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