札《あれ》あ誰が建てた? それに、それに、この御呪文は女筆《おんなのて》だぞ。ううむ、恨むか、燃えるか、執念の業火だ、いや、こりゃあいかさま無理もねえて。」
 日北上《ひほくじょう》の極とはいえ、涼風とともに物怪《もののけ》の立つ黄昏時、呼吸するたびに揺れでもするか、薬師縁日の風鈴が早や秋の夜風を偲ばせて、軒の端高く消ぬがにも鳴る。
 置物のように藤吉は動かなかった。心の迷いか五臓の疲れか、人っ子一人いないはずの仏壇の前に当ってざざ[#「ざざ」に傍点]っと畳を擦る音がする。立ち上って覗いた藤吉、
「あっ!」
 と驚いたことのない釘抜もこの時ばかりはその口から怖れと愕きの声を揚げた。無理もあるまい。線香の香の微かに漂い、燈明の燃えきった夕ぐれの部屋、仏壇前の畳に、日向の猫の欠伸《あくび》のように、山の字形に蠢《うごめ》きながら青白く光っているのは、先刻たしかに四尺は高い供壇《そなえだん》へ祭って置いたあの女の頬の肉ではないか。海月《くらげ》みたいに盛り上っては動くその耳を見ると、釘抜形に彎《まが》った藤吉の脚が、まず自ずと顫え出して、気がついた時、本八丁堀を日本橋指して藤吉は転ぶように急
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