ったく生きているおりんであった。お前さん一人を置いてはどこへも行けない、あたしゃもう怒るどころかふつふつ[#「ふつふつ」に傍点]喧嘩をしない心願を立てた、その証《あか》しには二人で、せいぜい稼業を励もうと、これ、こうやって途中から引き返して来たではないか――おりんは言った。平兵衛はただ身に沁みてありがたかった。手を取って泪を流して喜び合った。
 おりんが変なことを言い出した。つれの亡者から聞いたことだが、人肉は非常に香ばしくて歯切れがいいからこれを少しずつ蒲鉾へ混ぜたら、というのである。それも酉年生れの若い女の肉を酉の日に煮るにかぎる、幸いあたしは天保八の酉、あたしの骸《むくろ》はまだあの井戸の底にあるはずだから、後日《のち》とはいわず即刻《いま》にも引き上げて明日の酉の日の分に入れてみようじゃないか――と。
 平兵衛は疑った。人肉|云々《うんぬん》よりも井戸の中に屍体があるということを疑ったのである。が、この新しいおりんにはどこかに冒し難い怪しい気が立ち迷っているので、逆らうこともできず、平兵衛は黙っておりんに随いて戸外へ出た。
 おりんの屍体は平兵衛が投げ入れたとおりになっていた。平兵衛はもう驚かなかった。当然《あまりまえ》のことのようにしか思えなかった。新しいおりんの命ずるがままに、古いおりんを引き上げて仕事場に運ぶことすら、彼はかえって異様な歓喜を感じただけであった。おりんも手伝った。二人は、おりんの屍骸の臀部《でんぶ》から少量《すこし》の肉を切り取って明日の捏ねに混ぜることにした。自分自身の一部を手に下げておりんはほほほ[#「ほほほ」に傍点]と笑った。燐薬の作用《はたらき》で、一|週《まわ》りを経ている死人がまるで生きているように新鮮《あざやか》だったことなぞも、平兵衛は頭《てん》から気に留めなかったが、庭の隅を掘って屍の残部《のこり》を埋めるだけの用心は忘れなかった。
 翌日の蒲鉾には初めて磯屋の持味が出た。平兵衛自身一切れ試食して何年になく晴々とした。その日も夜とともにおりんが来た。毎晩おりんはどこからともなくやって来た。来るたびに近所の酉年生れの女の名を報《しら》した。酉年の女が頻繁に姿を隠し出したのはそのころからであった。浚って来た女を、平兵衛は井戸へ入れて殺し、燐薬の生気の中に漬けておいては酉の日を待っておりんと二人で料《りょう》って、臀肉を蒲鉾へ入れいれしていた。古井戸の底には、いつも一人や二人の若い女の屍体が転がっていないことはなかった。庭の土からは埋めた頭髪《かみのけ》が現れて、雨風に叩かれていた。
 天狗の業、神隠し、こうした言葉がさかんに行われ始めたのも町年寄の一人たる磯屋平兵衛がその流言《りゅうげん》の元締だったことは言うまでもないが、率先して庄助屋敷前にあの高札を建てて人心を眩まそうとしたその画策も皆おりんの指金であった。
 磯屋の品は好評を博した。それにつれて、天狗の横行もはなはだしくなった。が、一人ではああも多勢掠められるわけがない。実際、平兵衛が街上《まち》や路地の奥で女を押さえようとする時には、風のようにおりんの姿が立ち現れて金剛力を藉したという。あるいはそれは平兵衛にだけ見える幻であったかもしれない。犠牲《いけにえ》の数が重なるにしたがい、此紙《これ》を始終懐中にして供養の呪文を口誦するようにと、おりんは平兵衛へ「一郎殿より三郎殿、おそれありや」の彼の文言を書き与えたのであるという。
 で、今日はかのと[#「かのと」に傍点]の酉の日。
 四日前に入れた二つの屍だけを井戸から釣り上げておいて、平兵衛は朝早く青山の方へ用達しに行った。その帰途《かえり》、近所の町組詰所へ立ち寄って、異な物を銜えた宿無犬のことを聞き、もしやと思って急いで帰宅《かえ》ってみると、案の定、出かける前に茹で上げておいた屍《むくろ》の一つ――多分お滝の――から頬の肉が失くなっていた。のみならず、あわてて詰所を出た時か、大切なおりんの呪縛《まじない》の紙を紛失しているのに気がついた。
 落ち着かない心持で夜を待ったが、夜になってもおりんが来ないので、平兵衛は気が気でなかった。それでも、予定どおりに三つの釜の蒲鉾を仕上げて、極秘の混入《まぜ》物をすることも怠らなかった。おりんは今夜とうとう姿を見せなかった。呆然自失した平兵衛は、おりんを探すこころでよろめくように背戸口へ出たが――。ところで石と土の被せてある井戸の穴へどうして平兵衛が堕込《おちこ》んだか。またどうしてそのあとへ石と土とが直ったか。誰が手を下したか。謎である。永劫《えいごう》に解けない、これらの謎の鍵を握っていたかもしれない地上唯一の人間磯屋平兵衛も、この時はもう他界していた。おりんの呼び声でも聞いたとみえて、「おう、そこにいたか。今行く。」
 とひとこと
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