釘抜藤吉捕物覚書
巷説蒲鉾供養
林不忘

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)夫《そ》れ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)閻魔法王五|道冥官《どうみょうがん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#逆感嘆符、1−9−3]

 [#…]:返り点
 (例)坤為《こんい》[#レ]地《ち》
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      一

「夫《そ》れ謹み敬いて申し奉る、上は梵天帝釈《ぼんてんたいしゃく》四大天王、下は閻魔法王五|道冥官《どうみょうがん》、天の神地の神、家の内には井《いど》の神《かみ》竈《かまど》の神、伊勢の国には天照皇大神宮、外宮《げぐう》には四十末社、内宮には八十末社、雨《あめ》の宮風の宮、月読《つきよみ》日読《ひよみ》の大御神、当国の霊社には日本六十余州の国、すべての神の政所《まんどころ》、出雲《いずも》の国の大社《おおやしろ》、神の数は九万八千七社の御神、仏の数は一万三千四個の霊場、冥道を驚かし此に降し奉る、おそれありや。此の時によろずのことを残りなく教えてたべや、梓《あずさ》の神、うからやからの諸精霊、弓と箭《や》とのつがいの親、一郎どのより三郎どの、人もかわれ、水もかわれ、かわらぬものは五尺の弓、一打うてば寺々の仏壇に響くめり、穴とうとしや、おおそれありや――。」
 足許の地面から拾い上げた巻紙の片《きれ》に、拙《へた》な薄墨の字が野路の村雨《むらさめ》のように横に走っているのを、こう低声《こごえ》に読み終った八丁堀藤吉部屋の岡っ引|葬式《とむらい》彦兵衛は、鶏のようにちょっと小首を傾げた後、元のとおり丹念にその紙切れを畳んで丼の底へ押し込むと、今度は素裸の背中へ手を廻して、肩から掛けた鉄砲笊をぐい[#「ぐい」に傍点]と一つ揺り上げざま、事もなげに堀江町を辰巳《たつみ》へ取って歩き出した。藤倉草履に砂埃が立って、後から小さな旋風《つむじかぜ》が、馬の糞を捲き上げては消え、消えては捲き上げていた。
 文久|辛《かのと》の酉《とり》年は八月の朔日《ついたち》、焼きつくような九つ半の陽射しに日本橋もこの界隈はさながら禁裡のように静かだった。白っぽい街路《みち》の上に瓦の照返しが蒸れて、行人の影もまばらに、角のところ[#「ところ」に傍点]天屋の幟《のぼり》が夕待顔にだらり[#「だらり」に傍点]と下っているばかり――。
 当時鳴らした八丁堀合点長屋の御用聞釘抜藤吉の乾児葬式彦兵衛は、ただこうやって日永一日屑物を買ったり拾ったりしてお江戸の街をほっつき廻るのが癖だった。どたんばたん[#「どたんばたん」に傍点]の捕物には白|無垢《むく》鉄火の勘弁勘次がなくてならないように、小さなたね[#「たね」に傍点]を揚げたり網の糸口を手繰って来たりする点で、彦兵衛はじつに一流の才を見せていた。もちろんそれには千里利きと言われた彦の嗅覚が与《あずか》って力あることはいうまでもないと同時に、明けても暮れても八百八町を足に任せてうろ[#「うろ」に傍点]つくところから自然と彦兵衛が有《も》っている東西南北町名|生《いき》番付といったような知識と、屑と一緒に挾んでくる端《はした》の聞込みとが、地道な探索の筋合でまたなく彦を重宝にしていた事実《こと》も否定できない。それはいいとして、困ることは、ときどき病気の猫の子などを大事そうに抱えてくるのと、早急の用にどこにいるかわからないことだったが、よくしたもので、不思議にもそんな場合彦兵衛はぶらり[#「ぶらり」に傍点]と海老床の路地へ立戻るのが常だった。
 で、その日も、腹掛一つの下から男世帯の六尺を覗かせたまま、愛玩の籠を煮締めたような手拭で背中へ吊るし、手にした竹箸で雪駄《せった》の切緒でもお女中紙でも巧者に摘んでは肩越しに投げ入れながら、合点小路の長屋を後に、日蔭を撰ってここらへんまで流れて来ていたのだった。
 奇妙な文句を書いた先刻の紙片は、瀬戸物町を小舟町二丁目へ出ようとする角で拾ったもの。溝板の端に引っかかっていたのを何気なく取り上げて読んでみたに過ぎないが、ただそのまま他の紙屑と一緒にしてしまうのが惜しいような気がして、これだけは腹掛の奥へしまい込んだ。
「一郎どのより三郎どの、人もかわれ、水もかわれ、――か。」
 その一節を思い出しては口ずさみながら、彦兵衛は旅籠町の庄助屋敷の前を通りかかっていた。
 雨晒しの高札が立っている。見慣れてはいるが何ということなしに眼に留まった。
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   申上候一札之事
町内居住婦女頻々行方不知相成候段近頃覚奇怪候《ちょうないすまいのおんなひんぴんとしてゆくがたしれずにあいなりそうろうだんちかご
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