ろきっかいにおぼえそうろう》
之御膝下天狗並降魔神業存候爾来如斯悪戯《これおひざもとのてんぐならびにごうまじんのわざとぞんじそうろうもじらいかくのごときわるさは》
付一切無用左様被度承知置候事畢依之於上所払《いっさいむようにつきさようしょうちおかれたくそうろうことおわりかみにおいてところばらい》
被仰出候前早々退散諸州遠山江分山可有之候《おおせいだされそうろうぜんそうそうたいさんしょしゅうのえんざんへぶんざんこれあるべくそうろう》
文久元酉年 夏至 町年寄一同
大小天狗中
降魔神中
[#ここで字下げ終わり]
彦兵衛はにやり[#「にやり」に傍点]と笑った。五月末ごろから江戸中を脅《おびや》かしているこの一円の神隠し騒ぎ、腕自慢の目明しや好奇《ものずき》半分の若い衆が夜を日に継いでの穿鑿《せんさく》も絶って効ないばかりか、引き続いて浚《さら》われる者が後を絶たないので、町組一統寄合の上いろいろと談合の末が、これはどうしても天狗か魔神の所業に相違ないとあって、さて、ことごとしくも押っ樹てたのがこの「申上候一札」であった。この方角へはよく立廻るので、木札の立ったのが七月中旬であったことも彦兵衛は知っていた。それからここへ来るたびに、雨風に打たれて木肌《こはだ》の目《め》が灰色に消えて行くのを睹《み》こそすれ、不思議の因《もと》が洗われたという話は聞かず、新しい犠牲の名が毎まい人の口の端に上るばかりであった。四、五日前にも二人、昨日も昨日とて赤ん坊が一人地に呑まれるように見えずなったという――。
葬式彦兵衛はまたにやり[#「にやり」に傍点]とした。笑いながら歩き出そうとした。その時だった。
「屑屋あい、掴めえろようっ!」
「屑屋さあん、そこへ行く犬ころを押せえて下せえ。」
というあわただしい叫び声を先にしてどっ[#「どっ」に傍点]と数人の近づく跫音がした。彦兵衛は振り返った。悪戯らしい白犬を追って近所の人達が駈けてくる。犬は何か肉片のような物を銜《くわ》えて、一目散に走り過ぎようとした。生魚《なま》の盤台から切身でも盗んだか――彦兵衛はむしろ微笑もうとした。それにしても、続く人々の真剣さがいっそう彼にはおかしかった。
「屑屋っ! 捕めえろっ!」
ただごとではあるまい、と彦兵衛、思ったので、持っていた長箸を抛《ほう》った。それが宙を切って犬の足に絡んだ。一声高く鳴いて犬は横町へ逃げ込んだ。後には一片の肉が転がっている。
拾い上げた彦兵衛、見るみる顔色が変った。きっ[#「きっ」に傍点]となった。そして振り向いて折柄走り寄った追手の顔を見廻した。
「お前さん方、何しにあの犬を追って来なすった?」
「てこ[#「てこ」に傍点]変な物を銜《くえ》えてやがったからよ。」
一人が答えた。そのてこ[#「てこ」に傍点]変な物を、彦兵衛は突然自分の丼へ押し込んで、さっさと歩き出そうとした。他の一人が立ち塞った。
「やいやい、屑屋、拾った物を出せ。犬の野郎が置いてった物を、手前、出せよ。」
が、彦兵衛は黙って突退けた。二、三人が追い縋る、「伺えやしょう。」と彦兵衛は開き直って、「犬が何を銜えて来たか、皆の衆、定めし御存じでごわしょうの?」
「知るけえ! ただ異様な物と見たばかりに俺たちゃあこうして後を――。」と一人。
「屑屋渡世のお前なんざあ知るめえが此頃このあたりゃあ厳しい御詮議――。」とまた一人。
それを遮って彦兵衛は高札を指さした。
「あれけえ?」
「それほど承知ならなおのこと、隠した物をこれへ出しな。」
返事の代りに彦兵衛は訊き返した。
「あの犬あどこから来ましたえ?」
「辰う、発見《めっけ》たなあお前だなあ?」
「うん。」辰と呼ばれた男は息を弾ませて、「うん、小舟町の方から来やあがった。」
「小舟町?」
「うん。で、何だが妙竹林《みょうちきりん》な物を口っ端《ぺた》へぶら[#「ぶら」に傍点]下げてやがるから、俺あ声揚げて追っかけたんさ。するてえと――。」
「するてえと、ここにいなさる衆が突ん出て来て、たちまち犬狩りがおっ[#「おっ」に傍点]始まったってえわけですかえ――や、おおけに。」
くるり[#「くるり」に傍点]と廻り右した彦兵衛は何思ったかすたすた[#「すたすた」に傍点]歩き出した。
人々はあわてた。
「おい、そいつを持ってどこへ行くんだ?」
「なんだか出して見せろ!」
「こん畜生、怪しいぞ。」
「かまうこたあねえ。こいつから先にやっちめえ!」
「それっ!」
こんな声を背後にすると彦兵衛はやにわに走り出した。町内の者も一度に跡を踏んだ。が、無益なことに気がつくとすぐ立停まり、長谷川町を躍りながらだんだん小さくなって行く竹籠を言い合わしたように黙って凝視《みつ》めていた。
韋駄天の彦、脚も空
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