る。あたりを罩《こ》める射干玉《うばたま》の夜陰に、なんのことはない、まこと悪夢の一場面であった。
「おうっ、彦、勘、手を貸せ。」
 藤吉の声に人心ついた二人、両手と両足を一時に使って光る土を蹴散らす。万遍なく二、三寸も掘り下げると、出て来たのが伸銅《のべがね》のような一枚の石。その下の土中から光りが射している。
「待て!」
 耳を澄ます。人の呻き。どうやら足の下かららしい。思わず飛び退いて、三人力を合せて石を持ち上げる。紙のように軽い。機《はず》みを喰って背後へ下がる。とたんに、ぱっ[#「ぱっ」に傍点]と一条の光りの柱が白布のように立昇った。地底から、穴から――古井戸から。
 六つの手を継ぎ合わして、六つの眼が穴を覗く。二、三秒、暗黒に慣れた瞳が眩《くら》んだ。やがてのこと、青白い耀《ひか》りに照らし出された井戸の底に、水はなくても焔《ひ》が燃え、人の形のかすかに動いているのが、八丁堀三人の視線を捉えた。呻き声は絶え入りそうにもつれて上る。井戸の壁と起した石とに※[#「火+召」、第3水準1−87−38]々乎《しょうしょうこ》として燠火《おきび》が※[#「火+玄」、第3水準1−87−39]《かがや》いていた。
 無言のうちに事が運ばれた。
 逸早く彦兵衛が捜して来た物干竿の先に、御用十手が千段巻に捲きつけられて、足場を固めて立ちはだかった強力《ごうりき》勘次、みるみる内に竿の鍵へ手を引っかけて猫の仔みたいに男一人を釣り上げた。
 磯屋平兵衛が虫の息で三人の足許に長くなった。顔から着物から四肢《てあし》から、うっすら[#「うっすら」に傍点]と蒼い光りがさしていた。
 井戸の底には昨日|浚《さら》われた赤児お鈴の屍骸が、まるで生きているように横たわっていた。
「鬼火だの――燐だのう。」
 誰にともなく藤吉が言った。その声を聞きつけたものか、平兵衛はうう[#「うう」に傍点]と唸った。彦が支えた。藤吉はいざり寄る。「お、お、親分か――よ、黄泉《よみじ》の障りだ、き、聞いてくれ――。」
 片息ながら平兵衛の話した一伍一什《いちぶしじゅう》。
 世の中の事はすべて落日になる時は仕方のないもので、あれほど仲のよかった女房のおりんとも何かにつけぶつかる日が多かったが、五月|末季《すえ》のある夕ぐれ、商売上の些細なことから犬も食わない立廻りのあげく、打ちどころでも悪かったものか、おりんは平兵衛の振り上げた仕事用の砧《きぬた》の下に、未だ生きていたい現世《このよ》に心をのこして去ったのだった。
 驚き慌てた平兵衛、哭き悲しんでみたが、さてどうにもならない。それが、おりんの死体の処理という現実の問題に直面して、彼はいっそう困《こう》じ果てたのであった。
 この時、思い出したのが背戸の古井戸。
 いったい、平兵衛の代になってからいろいろの災厄が磯屋の家へふりかかってきた所以《ゆえん》のものは、一に、先代の死後間もなく彼が誤って掘らしめた暗剣殺に当る背戸口の井戸にあると、自分では固く信じていた。だから方位が悪いと気がつくや否や、大部分出来上った工事を中止させて、家の傍の小路端にあった道六神の石塔を、自身担いで来て、穴を塞ぎ、その上から土を被せてようやく安心したくらいであった。
 ところが、世間の思惑と葬式の資金に困った平兵衛は、気も顛倒していたものとみえて、普段あれほど恐れ戦《おのの》いていたこの水無《みなし》井戸へ、おりんの屍《むくろ》を投げ込もうと決心したのである。
 夜ひそかに土を掘り石を除いた平兵衛を、そこに一つの怪異が待ち構えていた。道六神の石標が六[#「六」に傍点]に準《なぞら》えた六角形の自然石、赤黄色を帯びて多分に燐を含む俗にいう鬼火石であることに平兵衛は気がつかなかった。また、その岩質が非常に脆く、永年土中に在って雨水異物を吸って表面がぼろぼろ[#「ぼろぼろ」に傍点]に朽ち果てたところから、井戸一帯に燐の粉が零《こぼ》れて、それに鬱気《うつき》を生じ、井戸の中、覆《ふた》の石、周りの土までが夜眼にも皓然《こうぜん》と輝き渡っていたその理を、彼は不幸にも弁《わきま》えなかったのだ。
 平兵衛は胆を潰した。無我夢中で死骸を投り込むと、元のとおりに石と土とで井戸を蔽って、その夜は眠られぬままに顫えて明かし、翌日からおりん失踪の件をいと真実《まこと》しやかに触れて歩いた。
 初七日はちょうど精霊迎えだった。その暮方のことだった。釜の火を落していた平兵衛が背後に人気を感じて何心なく振り返ると死んだ女房、古井戸の底に丸くなっているはずのおりんが、額へ三角の紙を当てて、そっくり[#「そっくり」に傍点]白の装束でいつの間にかかいがいしく鮫魚《さめ》の伸《のべ》棒を洗っていた。
 平兵衛は怖ろしいというよりも嬉しかった。衣類《きもの》こそ変れおりんはま
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