はっきり言った平兵衛は、ごぐ[#「ごぐ」に傍点]っと一つ唾を呑んで、これを末期《まつご》の水代りに大往生を遂げたのだった。
 声もなく立ち上った三人、言わず語らずの裡に胸から胸へと同じ思いが走った。仏滅|定《さだん》、そうだ、暗から闇へ――。
 裾を下ろして襟を正し形を改めた親分乾児は、むくろをしずかにしずかに井戸の底へ返した。藤吉の手が最初に一掬いの土を落した。勘次と彦兵衛が狂気《きちがい》のように急いで穴を埋めた。道六神の鬼火石が早速の墓を作った。
「お手のものだ、彦、経を上げてやれよ。」
 藤吉が言った。
「生得因果《しょうとくいんが》。」
 一言呟いて葬式彦はくす[#「くす」に傍点]っと笑った。
 庭の隅にも土饅頭を盛って相前後して足を払い、三人が町へ出た時、照降町の空高くしらじらと天の河が流れていた。
 素人八卦は当ったのかわれながら不思議なぐらいだが、幽明の境を弁えぬ凝性《こりしょう》の一念迷執、真偽虚実を外《よそ》に、これはありそうなことだと藤吉は思った。帰り着いたのは短夜の引明《ひきあけ》だった。勘次が先にはいって二人の頭から浪の花を見舞った。ここに最後の不思議と言えば、燐の凝気《こりけ》が燈明の熱に解けて自然《ひとりで》に伸縮《のびちぢみ》して動き出したあの片頬と、猫板の上に遺して行ったおりんの墨跡とが、掻き消すように失くなっていたことだった。
 磯屋の物と言わずすべて蒲鉾を口にした覚えのある江戸中の人の気を察して、藤吉は二人の乾児に堅く口外を戒めた。平兵衛の行方不明は、もう一つの、そしてこれが終いの、日本橋の神隠しとして風評《うわさ》のうちに日が経って行った。磯屋跡の背戸口に、時折堅気に拵《つく》った八丁堀の三人がひそかに誰かの冥福を祈っている図は、絶えて人の眼につかなかったらしい。しかし、いつどこから洩れたものか、何事も茶にしてすまそうとする江戸っ子気質、古本江戸異物牒に左の地口《じぐち》が散見している。
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照降りをしり[#「しり」に傍点]つつしんじょの月が浮く磯平の釜は湯地獄の釜
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 しり[#「しり」に傍点]は臀部《しり》に掛けたもの、しんじょ[#「しんじょ」に傍点]は※[#「米+參」、第3水準1−89−88]薯《しんじょ》であって半平《はんぺん》の類《たぐい》、真如《しんにょ》の月に通ずる。
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食《くら》わしょと打つや磯屋の人砧《ひときぬた》
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 玉川の衣《きぬ》打つ槌と違ってこれはこらしょっ[#「こらしょっ」に傍点]と叩く磯屋の砧、市井丸出しの洒落のうちに、いわゆる人を食ったやつ[#「やつ」に傍点]の寝覚めの悪さをも遺憾なく諷《ふう》している。月並なだけ、次の句はまず無難であろう。
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磯鉾はこてえられねえと鬼がいい
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底本:「一人三人全集1[#「1」はローマ数字、1−13−21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」河出書房新社
   1970(昭和45)年1月15日初版発行
入力:川山隆
校正:松永正敏
2008年5月20日作成
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