札《あれ》あ誰が建てた? それに、それに、この御呪文は女筆《おんなのて》だぞ。ううむ、恨むか、燃えるか、執念の業火だ、いや、こりゃあいかさま無理もねえて。」
日北上《ひほくじょう》の極とはいえ、涼風とともに物怪《もののけ》の立つ黄昏時、呼吸するたびに揺れでもするか、薬師縁日の風鈴が早や秋の夜風を偲ばせて、軒の端高く消ぬがにも鳴る。
置物のように藤吉は動かなかった。心の迷いか五臓の疲れか、人っ子一人いないはずの仏壇の前に当ってざざ[#「ざざ」に傍点]っと畳を擦る音がする。立ち上って覗いた藤吉、
「あっ!」
と驚いたことのない釘抜もこの時ばかりはその口から怖れと愕きの声を揚げた。無理もあるまい。線香の香の微かに漂い、燈明の燃えきった夕ぐれの部屋、仏壇前の畳に、日向の猫の欠伸《あくび》のように、山の字形に蠢《うごめ》きながら青白く光っているのは、先刻たしかに四尺は高い供壇《そなえだん》へ祭って置いたあの女の頬の肉ではないか。海月《くらげ》みたいに盛り上っては動くその耳を見ると、釘抜形に彎《まが》った藤吉の脚が、まず自ずと顫え出して、気がついた時、本八丁堀を日本橋指して藤吉は転ぶように急いでいた。
四
往昔《むかし》まだ吉原が住吉町、和泉町、高砂町、浪花町の一廓にあったころ、親父橋から荒布《あらめ》橋へかけて小舟町三丁目の通りに、晴れの日には雪駄、雨には唐傘と、すべて嫖客の便を計って陰陽の気の物をひさぐ店が櫛比《しっぴ》しているところから江戸も文久と老いてさえ、この辺は俗に照降町と呼ばれていた。
その照降町は小舟町三丁目に、端物ながらも食通を唸らせる磯屋平兵衛という蒲鉾《かまぼこ》の老舗《しにせ》があった。
明暦大火のすぐ後、浅草金竜山で、茶飯、豆腐汁、煮締、豆類などを一人前五分ずつで売り出した者があったが、これを奈良茶と言っておおいに重宝し、間もなく江戸中に広まってそのなかでも、駒形の檜物《ひもの》屋、目黒の柏屋、堺町の祇園屋などがことに有名であった。また同じく金竜山から二汁五菜の五匁料理の仕出しも出て、時の嗜好《しこう》に投じてか、ひところは流行を極めたものだったが、この奈良茶や五匁の上所《じょうどころ》へ蒲鉾を納めて名を売ったのが、伊予宇和島から出て来た初代の磯屋平兵衛であった。
当代の平兵衛は四代目で、先代に嗣子《よつぎ》がなかったとこ
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