扉無《とな》しの関所がある。近江屋はあわて出した。
慌てて追っても去りはしない、お捻《ひね》りを献ずれば、じろり[#「じろり」に傍点]と流眄《ながしめ》に見るばかり、また一段と声張り揚げて、
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「うらみ数え日
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家蔵とられた
仇敵に近江屋――
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あれ、よしこの何だえ
お茶漬さらさら」
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近江屋はほとほと困《こう》じ果ててしまった。
これが毎日のことだった。お艶の唄うのはお茶漬音頭のこの文句にきまっていた。立つところは近江屋の前に限られていた。そして、それが物の十月近くも続いたのである。
上り込んで動かないというのでもないし、それに狂気女の根無し言だから、表沙汰にするのも大人気ないとあって、近江屋は出るところへも出られず、見て見ぬ振り、聞いて聞かぬ心で持てあましているうちに、お艶は誰彼の差別なく行人の袂を押えてはこんなことを口走るようになった。
「あれ、見しゃんせ。この近江屋さんは妾《あたき》の店でござんす。なに、証文? そんな物は知りんせんが、家屋敷なら三つ並ぶ土蔵の構え、暖簾《のれん》か
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