らともなく蹣跚《よろば》い出てくるお艶は、毎日決まって近江屋の門近く立って、さて、天の成せる音声《のど》に習練の枯れを見せて、往きし昔日《むかし》の節珍しく声高々と唄い出でる。
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「うらみ数え日
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家蔵《いえくら》とられた
仇敵におうみや
くすりかゆすりか
気ぐすりゃ知らねど
あたきゃ窶れてゆくわいな
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あれ、よしこのなんだえ
お茶漬さらさら」
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 あれ、よしこのなんだえ、お茶漬さらさら――浮いた調子の弾《はず》むにつれて、お艶の頬に紅も上れば道行く人の足も停まる、近江屋はじつに気が気でなかった。
「家蔵取られた仇敵におうみや」の近江屋は、権現様と一緒に近江の国から東下して十三代、亀島町に伝わるれっきとした生薬《きぐすり》の老舗《しにせ》である。高がいささか羽目《はめ》の緩んだ流し者|風情《ふぜい》の小唄、取り上げてかれこれ言うがものもあるまいと、近江屋では初めのうちは相手にならずに居はいたもののこっちはこれですむとしても、それではすまないという理由《わけ》はそこに世間の口の端《は》と申すうるさい
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