えがのう。」乗り出す藤吉の足許から、
「なあに親分、」勘次が答えた。「彦のこった、大丈夫|鉄《かね》の脇差し――即《つ》かず離れず見え隠れ、通う千鳥の淡路島、忍ぶこの身は――。」
「しいっ!」
声は近着いてくる。唄の文句は明瞭《はっきり》とは聞き取れないが、狂女お艶から出てこの界隈では近ごろ誰でも承知の狂気節《きちがいぶし》はお茶漬音頭、文政末年|都々逸坊仙歌《どどいつぼうせんか》が都々逸を作出《あみだ》すまでのその前身よしこの[#「よしこの」に傍点]節の直流を受けて、摺竹《すりだけ》の振り面白い江戸の遊《すさ》びであった。歌詞《ことば》に棘《とげ》があるといえばあるものの、根が狂気女《きちがいおんな》の口ずさむ俗曲、聞く人びとも笑いこそすれ、別に気に留める者とてはなかった。
片岡町を左へ松屋町へ出たと見えて、お艶の美音は正覚橋《しょうがくばし》のあたりから、転がるように途切れ途ぎれて尾を引いてくる――。
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「うらみ数え日
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家蔵《いえくら》とられた
仇敵《かたき》におうみや
薬かゆすりか
気ぐすりゃ知らねど
あたきゃ窶《やつ》れてゆくわ
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