つに散った。犬の唸り、低く叱る勘次の声、続いて石を抛る音、後はまたことり[#「ことり」に傍点]ともしない。八百八町の無韻《むいん》の鼾《いびき》が、耳に痛いほどの静寂《しずけさ》であった。
この時、軒下伝いに来かかった一人の男、忍びやかに寄って近江屋の戸を叩いた。一つ、二つ、また三つ四つ――何の返事もない。時刻が時刻、これは返事がないはずだ。男は焦立《いらだ》つ。戸を打つ音が大きくなる。
「近江屋さん、ええもし、近江屋さんえ。」
近辺《あたり》かまわず板戸を揺すぶったのがこの時初めてきいたとみえて、
「誰だい? なんだい今ごろ。」
と内部《なか》から不服らしい小僧の寝呆け声。
「儂《わし》だ。約束だ、開けてくれ。」
「約束? 約束なんかあるわけはないよ。」
戸を距《へだ》てての押問答。
「お前じゃわからない。御主人と約束があるんだ。待ってなさるだろ、奥へそ[#「そ」に傍点]言って此戸《ここ》開《あ》けてくれ。」
「駄目だよ、世間様が物騒だから閉《た》てたが最後大戸だけは火事があっても開けちゃあいけないって、今夜も寝る前に大番頭さんに言われたんだ。何てったって開けるこっちゃないよ
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