お艶を始め因業家主の身辺には、それからひとしお黒い影がつきまとうこととなったのである。
 相も変らず近江屋の前でお艶は唄う。唄いながら行人の袖を惹く。袖を惹いてはこのごろではこんなことを言う。
「妾《あたき》には立派な背後立《うしろだ》てがありますから、この近江屋を今に根こそぎ貰い返してくれますとさ。まま大きな眼で御覧じろ――。」
 この背後《うしろ》立てが大家久兵衛であることは、誰からともなく一時にぱっ[#「ぱっ」に傍点]と拡がった。広い世間を狭く渡る身の上とはいえ、久兵衛の迷惑言わずもがなである。が、乗りかけた船、後へは引かれない。久兵衛、その代り前へ進んで一気に思いを遂げようとした。お茶漬を食べてひらりひらり[#「ひらりひらり」に傍点]と鉾先《ほこさき》を交し、お艶はなおも近江屋一件を頼み込んで帰る。元来《もとより》証文も何もない夢のような話、色に絡んでおだてて見たものの、自業自得の久兵衛、とんだお荷物を背負い込んだ具合で今さら引込みもつかず、ただこの上は遮二無二言うことを聞かせようと胸を擦《さす》って今宵を待っていた今日というこの十三日――待てば海路の何とやらで、これはまたど[
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