ら地所まで全部《そっくり》抜いて奪《と》られました。はあ、妾《あたき》の爺様の代に此店《ここ》の先代という人にうまうま[#「うまうま」に傍点]一杯|欺《は》められて――ああ口惜しい、口惜しいっ! お返し! お寄越し! 盗人! 詐偽師《かたり》っ! お返しったらお返し! お店からお顧客《とくい》までそのままつけて返すがいいのさ。あれ、よしこのなんだえ、お茶漬さらさら、ほほほほほ。」
後は朗かな唄声に変って、うらみ数え日、とまたも始める――。
こうなると抛擲ってはおかれない。まず最初《まっさき》に騒ぎ出したのが、お艶の話に出て来る当の先代なる近江屋の隠居であった。さんざん考えあぐんだ末生易しい兵法ではいけないと見て、お艶の影を認め次第|飛礫《つぶて》の雨を降らせるようにと番頭小僧へ厳命を下しておいたが、その結果は、小石の集まる真ん中でお艶をして唯一得意の「お茶漬さらさら[#「さらさら」に傍点]」をやらせるに止まり、顕《げん》の見えないことおびただしかった。
近江屋にしたところで商売仇もあれば憎み手もある。この、根も葉もない狂女の言い草にさえ、火のないところに煙は立たぬとかなんとか取り立てて、早《はや》くもけち[#「けち」に傍点]をつけにかからんず模様、さらぬだに口性《くちさが》ない江戸の雀、近江屋はやっきになり出したが、それにもましてお艶は腕、いや、口に縒《よ》りをかけてあらぬ鬱憤を洩らし始めるという、茲元《ここもと》片《かた》や近江屋片やお艶のまたとない取組となったある日のこと――。
そのある日、湯島の方へ用達《ようたし》に行った帰途《かえり》を近江屋の前へ差しかかったのが、八丁堀に朱総を預る合点長屋の釘抜藤吉、いきなり横合から飛び出して藍微塵《あいみじん》の袖を掴んだのは、言わずと知れたお茶漬音頭で時めくお艶、
「あれ見しゃんせ。この近江屋さんは妾《あたき》の店でござんす――。」
言いかけたお艶の顔を、藤吉は笠を撥ね上げてじいっと見据えた。と、どうしたものかお艶は後を濁して藤吉の袖を放すと、折柄来かかったお店者らしい一人へ歩を寄せて、
「あれ、見しゃんせ――。」
と始めたが、このことあって以来、藤吉親分はお艶の狂気ぶりへそれとなく眼を光らせるようになって行った。
あれから旬日、その間に勘弁勘次に葬式彦兵衛の二人の乾児が尾けたり巻かれたり叩いたり、洗えるだけのことは洗って来たが、今宵の名月を機《しお》に今度こそは居所なりと突き留めようと、さてこそ、彦兵衛が奥の手は「お後嗅ぎ嗅ぎ」流の忍びの尾行となったのだった。
明けを急ぐか、夏の夜は早く更ける。お茶漬音頭の流しも消えて、どこかの軒に入れ忘れた風鈴が鳴るころ、河を距てた寝呆け稲荷の方に当ってけんとん[#「けんとん」に傍点]売りの呼び声が微風に靡いていた。
「親分え――お、勘兄哥もか。」
彦兵衛が帰って来た。縁台を離れて藤吉も溝板の上にうずくまった。三人首を鳩《あつ》めて低声の話に移った。その話がすんだ時、
「やるべえ!」
藤吉が立ち上った。
「おうさ、当るだきゃあ当って見やしょう。」
二人も起った。十三夜は満ちて間もない。その月が澄めば澄むほど、物の陰は暗くもなろう。真黒な三つの塊りが川の字形に跡を踏んで丑寅《うしとら》の角へ動いて行ったのは、あれで、かれこれ九つに近かった。
「通う千鳥の淡路島、忍ぶこの身の夜を込めて――。」
背後《うしろ》の影が唸った。前なる影が振り向いた。
「勘、われ[#「われ」に傍点]あ常から口が多いぞ。」
「へい。」
二
鮨町を細川越中の下屋敷へ抜けようとする一廓が神田代地、そこにいかにも富限者らしい造作《つくり》があって近所の人は一口に因業御殿《いんごうごてん》と呼んでいるが、これこそ因業家主が通名の大家久兵衛が住宅《すまい》。此家《ここ》へお茶漬お艶が、近江屋を虐めた帰り毎夜のように立廻ることを見極めたのは、たしかに葬式彦兵衛が紙屑買いの拾物《ひろいもの》であった。だから、因業が祟っていまだに独身の五十男久兵衛が、女の狂っているのをいいことにして、それこそお茶漬一杯で釣っておき、明日にも自分が表から乗り込んで行って近江屋の身上を取返してやると言いながらあわ[#「あわ」に傍点]よくばお艶の肉体《からだ》を物にしようと企んでいることは、八丁堀にはとうの昔にわかっていた。この久兵衛とお艶とどういう関係《かかりあい》にあるのか、などと改めて四角張るのは野暮の骨頂で、片方が気違いのことだ、順序も系統もあったものではない。ただ、近江屋攻めに油の乗り出した二月ほど前に、近江屋の門口に現れた時と同じようにお艶のほうからぶらり[#「ぶらり」に傍点]と因業御殿へ舞い込んだというだけのこと。
有名な美人の狂女がこう思いがけなく飛
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