わ》ぎの好きな下町の人びとの間に、声を聞かざるは三代の恥、姿を見ざるは七代の不運なぞと言い囃《はや》され、美人番付の小結どころに挙げられるほどの持て方となった。
 正月のある夕ぐれ、ふら[#「ふら」に傍点]っと亀島町の薬種問屋近江屋の前に立って、鈴を振るような声で例のよしこの[#「よしこの」に傍点]くずしを唄い出したというだけで、はたしてどこから来てどこへ帰るのか、またはどういう身分の女がなにが動機《もと》でこうも浅間しく気が狂ったのか、それらのことはいっさいわからなかった。わからないから謎とされ、謎となっては頼まれもしないに解いて見しょうという者の飛び出してくるのは、これは当然《あたりまえ》。それかあらぬか、地の女好きにこの探索《さぐり》の心が手伝って、町内の若い者が三、四人、毎夜のように交替《かわりあ》って近江屋の前からお艶の後を尾《つ》けつけしたが、本八丁堀を戌亥《いぬい》へ突っ切って正覚橋を渡り終ると、先へ行くお艶の姿が掻き消すように消えて失くなるという怪談じみた報告《しらせ》を齎して、皆しょんぼり[#「しょんぼり」に傍点]空手《からて》で帰るのが落ちだった。
 するとまた、あの正覚橋の彼方詰《むこうづめ》には寝呆け稲荷という祠《ほこら》があるから、ことによるとあのお艶という女は眷属様《けんぞくさま》のお一人がかりに人体《にんたい》をとってお徒歩《しのび》に出られるのではあるまいかなどと物識《ものし》り顔に並べ立てる者も出て来て、この説はかなりに有力になり、今までき[#「き」に傍点]印だのき[#「き」に傍点]の字だのと呼んでいたものが、急に膝を正してお艶様さまと奉《たてまつ》る始末。なんのことはない、裏京橋の一帯が今日日《きょうび》はお茶漬お艶の話で持切りの形であった。
 お艶が名高くなるにつけ、いっそう困り出したのが亀島町の近江屋であった。
 風に混って粉雪の踊る一月から、鐘に桜花《さくら》の散る弥生《やよい》、青葉若葉の皐月《さつき》も過ぎて鰹の走る梅雨晴れ時、夏に入って夏も老い、九月も今日で十三日という声を聞いては、永いようで短いのが蜉蝣《かげろう》の命と暑さ盛り、戸一重まで秋は湿やかに這い寄っているが、半歳にもあまるこの期間《あいだ》、降っても照っても近江屋の前にお艶の姿を見ない日はなかった。陽もそぼそぼ[#「そぼそぼ」に傍点]と暮方になると、どこからともなく蹣跚《よろば》い出てくるお艶は、毎日決まって近江屋の門近く立って、さて、天の成せる音声《のど》に習練の枯れを見せて、往きし昔日《むかし》の節珍しく声高々と唄い出でる。
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「うらみ数え日
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家蔵《いえくら》とられた
仇敵におうみや
くすりかゆすりか
気ぐすりゃ知らねど
あたきゃ窶れてゆくわいな
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あれ、よしこのなんだえ
お茶漬さらさら」
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 あれ、よしこのなんだえ、お茶漬さらさら――浮いた調子の弾《はず》むにつれて、お艶の頬に紅も上れば道行く人の足も停まる、近江屋はじつに気が気でなかった。
「家蔵取られた仇敵におうみや」の近江屋は、権現様と一緒に近江の国から東下して十三代、亀島町に伝わるれっきとした生薬《きぐすり》の老舗《しにせ》である。高がいささか羽目《はめ》の緩んだ流し者|風情《ふぜい》の小唄、取り上げてかれこれ言うがものもあるまいと、近江屋では初めのうちは相手にならずに居はいたもののこっちはこれですむとしても、それではすまないという理由《わけ》はそこに世間の口の端《は》と申すうるさい扉無《とな》しの関所がある。近江屋はあわて出した。
 慌てて追っても去りはしない、お捻《ひね》りを献ずれば、じろり[#「じろり」に傍点]と流眄《ながしめ》に見るばかり、また一段と声張り揚げて、
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「うらみ数え日
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家蔵とられた
仇敵に近江屋――
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あれ、よしこの何だえ
お茶漬さらさら」
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 近江屋はほとほと困《こう》じ果ててしまった。
 これが毎日のことだった。お艶の唄うのはお茶漬音頭のこの文句にきまっていた。立つところは近江屋の前に限られていた。そして、それが物の十月近くも続いたのである。
 上り込んで動かないというのでもないし、それに狂気女の根無し言だから、表沙汰にするのも大人気ないとあって、近江屋は出るところへも出られず、見て見ぬ振り、聞いて聞かぬ心で持てあましているうちに、お艶は誰彼の差別なく行人の袂を押えてはこんなことを口走るようになった。
「あれ、見しゃんせ。この近江屋さんは妾《あたき》の店でござんす。なに、証文? そんな物は知りんせんが、家屋敷なら三つ並ぶ土蔵の構え、暖簾《のれん》か
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