釘抜藤吉捕物覚書
お茶漬音頭
林不忘
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)海老床《えびどこ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|助奴《すけやっこ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)どっ[#「どっ」に傍点]と起る笑い
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一
「はいっ。」
「はいっ。」
「ほらきた!」
「よいとこら!」
「はっ。」
「はっ。」
庄屋よ狐よ猟師よと拳にさざめく夕涼み。本八丁堀三丁目、海老床《えびどこ》の縁台では、今宵、後の月を賞めるほどの風雅《みやび》はなくとも、お定例《きまり》の芋、栗、枝豆、薄《すすき》の類の供物《くもつ》を中に近所の若い衆が寄り合って、秋立つ夜の露っぽく早や四つ過ぎたのさえ忘れていた。
親分藤吉を始めいつもは早寝の合点長屋《がってんながや》の二人までが、こう気を揃えてこの群に潜んでいるのも、なにがなし珍《ちん》と言えば珍だったが、残暑の寝苦しさはまた格別、これも御用筋を離れての徒然《つれづれ》と見ればそこに涼意も沸こうというもの。夢のような夜気に行燈《かんばん》の灯が流れて、三|助奴《すけやっこ》を呼ぶ紅葉湯の拍子木《ひょうしぎ》が手に取るよう――。
軒下の竹台に釘抜のように曲った両脚を投げ出した目明し藤吉、蚊遣《かや》りの煙を団扇《うちわ》で追いながら、先刻《さっき》から、それとなく聴耳を立てている。天水桶の陰に、しゃがんで、指先でなにかしきりに地面へ書いているのは、頬冠《ほおかむり》でよくはわからないが乾児《こぶん》の勘弁勘次《かんべんかんじ》。十三夜の月は出でて間もない。
どっ[#「どっ」に傍点]と起る笑い。髪床の親方甚八とに[#「に」に傍点]組の頭常吉との向い拳で、甚八が鉄砲と庄屋の構えを取り違えたという。それがおかしいとあってやんや[#「やんや」に傍点]と囃《はや》す。その騒ぎの鎮まったころ、片岡町の方から、あるかなしかの風に乗って不思議な唄声が聞えてきた。銀の伸板《のべ》をびいどろ[#「びいどろ」に傍点]の棒で叩くような、それは現世《このよ》のものとも思えない女の咽喉《のど》。拳の連中は気がつかないが、藤吉はぐい[#「ぐい」に傍点]と一つ顎をしゃくって、
「来たな!」
という意《こころ》。勘次は頷首《うなず》く。
「彦の野郎うまくやってくれりゃあ好えがのう。」乗り出す藤吉の足許から、
「なあに親分、」勘次が答えた。「彦のこった、大丈夫|鉄《かね》の脇差し――即《つ》かず離れず見え隠れ、通う千鳥の淡路島、忍ぶこの身は――。」
「しいっ!」
声は近着いてくる。唄の文句は明瞭《はっきり》とは聞き取れないが、狂女お艶から出てこの界隈では近ごろ誰でも承知の狂気節《きちがいぶし》はお茶漬音頭、文政末年|都々逸坊仙歌《どどいつぼうせんか》が都々逸を作出《あみだ》すまでのその前身よしこの[#「よしこの」に傍点]節の直流を受けて、摺竹《すりだけ》の振り面白い江戸の遊《すさ》びであった。歌詞《ことば》に棘《とげ》があるといえばあるものの、根が狂気女《きちがいおんな》の口ずさむ俗曲、聞く人びとも笑いこそすれ、別に気に留める者とてはなかった。
片岡町を左へ松屋町へ出たと見えて、お艶の美音は正覚橋《しょうがくばし》のあたりから、転がるように途切れ途ぎれて尾を引いてくる――。
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「うらみ数え日
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家蔵《いえくら》とられた
仇敵《かたき》におうみや
薬かゆすりか
気ぐすりゃ知らねど
あたきゃ窶《やつ》れてゆくわいな
[#ここから3字下げ]
あれ、よしこの何だえ
お茶漬さらさら」
[#ここで字下げ終わり]
一つ文句のこの小唄、明暮れこれを歌いながら、お艶は今も夜の巷を行く。白じらとした月明りに罩《こ》もって、それはさながら冥府の妓女《うたいめ》の座興のよう――藤吉勘次は思わず顔を見合せた。拳にも倦《あ》きてか、もう縁台の人影もいつとはなしに薄れていた。
お江戸京橋は亀島町を中心《なか》にして、狂女のお艶が姿を現わしたのはこの年も春の初め、まだ門松が取れたか取れないころだった。鳥追笠を紅緒《べにお》で締めて荒い黄八に緋鹿子《ひがのこ》の猫じゃらしという思い切った扮装《いでたち》も、狂気なりゃこそそれで通って、往きずりの人もち[#「ち」に傍点]と調子の外れた門付《かどづけ》だわいと振り返るまでのこと、当座はたいして物見評判の的にもならずに過ぎたのだったが、ある好奇家《ものずき》がひょい[#「ひょい」に傍点]と笠の下を覗き込んで、「稀代の逸品でげす、拝むだけで眼の保養でげす」などと大仰《おおぎょう》に頭を叩いてからというものは、お艶の名はその唄うお茶漬音頭とともに売り出して、こんな莫迦騒《ばかさ
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