らともなく蹣跚《よろば》い出てくるお艶は、毎日決まって近江屋の門近く立って、さて、天の成せる音声《のど》に習練の枯れを見せて、往きし昔日《むかし》の節珍しく声高々と唄い出でる。
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「うらみ数え日
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家蔵《いえくら》とられた
仇敵におうみや
くすりかゆすりか
気ぐすりゃ知らねど
あたきゃ窶れてゆくわいな
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あれ、よしこのなんだえ
お茶漬さらさら」
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あれ、よしこのなんだえ、お茶漬さらさら――浮いた調子の弾《はず》むにつれて、お艶の頬に紅も上れば道行く人の足も停まる、近江屋はじつに気が気でなかった。
「家蔵取られた仇敵におうみや」の近江屋は、権現様と一緒に近江の国から東下して十三代、亀島町に伝わるれっきとした生薬《きぐすり》の老舗《しにせ》である。高がいささか羽目《はめ》の緩んだ流し者|風情《ふぜい》の小唄、取り上げてかれこれ言うがものもあるまいと、近江屋では初めのうちは相手にならずに居はいたもののこっちはこれですむとしても、それではすまないという理由《わけ》はそこに世間の口の端《は》と申すうるさい扉無《とな》しの関所がある。近江屋はあわて出した。
慌てて追っても去りはしない、お捻《ひね》りを献ずれば、じろり[#「じろり」に傍点]と流眄《ながしめ》に見るばかり、また一段と声張り揚げて、
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「うらみ数え日
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家蔵とられた
仇敵に近江屋――
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あれ、よしこの何だえ
お茶漬さらさら」
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近江屋はほとほと困《こう》じ果ててしまった。
これが毎日のことだった。お艶の唄うのはお茶漬音頭のこの文句にきまっていた。立つところは近江屋の前に限られていた。そして、それが物の十月近くも続いたのである。
上り込んで動かないというのでもないし、それに狂気女の根無し言だから、表沙汰にするのも大人気ないとあって、近江屋は出るところへも出られず、見て見ぬ振り、聞いて聞かぬ心で持てあましているうちに、お艶は誰彼の差別なく行人の袂を押えてはこんなことを口走るようになった。
「あれ、見しゃんせ。この近江屋さんは妾《あたき》の店でござんす。なに、証文? そんな物は知りんせんが、家屋敷なら三つ並ぶ土蔵の構え、暖簾《のれん》か
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