には解りませんが、私はたしかに近江屋の元七――。」
 と言いかける番頭を手で黙らした藤吉は、一歩進んで久兵衛を睨《ね》めつけ、
「応さ、違わなくてか。お前さんとこへ出向いた元七は、寸の伸びた顔《そっぽ》に切れ長の細え眼――。」
「大柄で色の黒い――。」
「それだ、それだ!」
 勘次と彦兵衛が背後《うしろ》から合わせる。藤吉はにっこり笑って、
「まあさ、ええやな、それよりゃあ久兵衛さん、その証文てのをお出しなせえ。」
「でも、これと引換えに七百両――。」
「やいやい、まだ眼が覚めねえか。さ、出せと言ったら綺麗に出しな。」
 出し渋るところをひったくった藤吉、燈に透かして眺めれば、これは見事なお家流の女文字。
「ええと、」と藤吉は読み上げた。「一札入申候証文之事《いっさついれもうしそうろうしょうもんのこと》、私儀御当家様とは何の縁びきも無之《これなく》、爾今|門立小唄《かどだちこうた》その他御迷惑と相成可一切事《あいなるべきいっさいのこと》堅く御遠慮申上候、若し破約に於ては御公儀へ出訴なされ候も夢々お恨申す間敷《まじく》、後日のため覚書の事|依如件《よってくだんのごとし》、近江屋さま、つや――とある。ふうん。」
 久兵衛は死人のよう。思わず差し出す元七の掌へ藤吉は証文を押しつけて、
「穿鑿無用《せんさくむよう》! 久兵衛さんはこれを届けに来なすったんだ。のう元さん、お前の方じゃあ文句はあるめえ。隠居へよろしく。締りを忘れめえぞ。」
 言い捨てて矢のように走り出した。久兵衛を引き立てて勘次彦兵衛がそれに続く。小僧と元七、ぼんやり後を見送っていた。
 その日の正午過ぎ、近江屋の大番頭元七と名乗る男が因業御殿を訪れて、狂女お艶へ七百両やるから縁切状を引換えに取ってくれと主人の言葉として伝えたことは、勘次の駈込みに依って逸早くわかっていたが、これで、にわかに色から慾へ鞍がえした久兵衛は、急遽自分で、家作を担保《かた》に五百両の現金を生み出し、夕方立寄ったお艶にその金を握らせて無理に「一札入申候証文之事」を書かせ、ここで二百両撥ねようと約束通り世間を忍んで子の刻に、証文を渡して七百両受け取るべく喜び勇んで近江屋へ来て見るとこの有様。猫婆どころか資《もと》も利《こ》もない。
「これからその敵討ち。」松村町を飛びながら藤吉が呻いた。「久兵衛さん、お前は心掛けがよくねえから、このくれえ
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