の痛《いた》事はけえって気つけかもしれねえが、当方《こちとら》あその贋元《にせげん》にちょっと心当りがあろうというもの――。」
「親分、ここだ!」
彦兵衛が立ち停まった。三十間堀へ出ようとする紀の国橋の畔、なるほど、寝呆け稲荷の裏に当って、見る影もない三軒長屋、端の流元《ながしもと》から損《こわ》れ行燈の灯がちらちら[#「ちらちら」に傍点]と――。
御用の声が間もなく近隣の熟睡《うまい》を破った。やがて月光の下に引き出された男女二人、男は浪人者の居合抜き唐箕嘉《とうみのか》十|郎《ろう》、額部《ひたい》へ受けた十手の傷から血が滴って、これが久兵衛に突き合わされた時、さすがの因業親爺、顫え上って元七に化けた男に相違ござりませぬと証言した。女は嘉十郎妻お高、と言うよりはお茶漬音頭で先刻馴染の狂女お艶、足拵えも厳重に今や二人は高飛びの間際《まぎわ》であった。五百両はそっくりそのまま久兵衛の手に返った。
「お茶漬さらさら[#「さらさら」に傍点]か。ても[#「ても」に傍点]うまく巧んだもんさのう。」
番屋へ揚げてから、藤吉はこう言ってお艶、いや、お高の顔を覗き込んだ。
「ほほほほ、まあ、親分さんのお人の悪い!」
お高は笑った。嘉十郎は苦い顔して黙りこくっていた。
さても長い芝居ではあった。見込まれた近江屋と因業久兵衛の弱り目はさることながら、狂気の真似をし通したお高の根気《こんき》、役者も下座も粒の揃った納涼狂言《すずみきょうげん》、十両からは笠の台が飛ぶと言われたその当時、九カ月あまりに五百両は、もし最終《どんじり》まで漕ぎつけえたら、瘠浪人の書き下し、なにはさて措き、近ごろ見物の大舞台であった。
月は落ちて明けの七つ。
伊達若狭守殿の控邸について、帰路《かえり》を急ぐ親分乾児、早い一番鶏の声が軽子河岸《かるこがし》の朝焼けに吸われて行った。
突然、葬式彦が嗄声《かれごえ》揚《あ》げて唄い出した。
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「女だてらに
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お茶漬け一|杯《ぺえ》
浮世さらさら
流そとしたが
お尻《けつ》が割れては
茶漬どころじゃないわいな」
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先へ立つ釘抜藤吉、その顔が笑みに崩れた。と、とてつもない勘次の銅鑼声《どらごえ》が彦兵衛に和して、朝の街を揺るがすばかりに響き渡った。
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「あれ、よし
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