つに散った。犬の唸り、低く叱る勘次の声、続いて石を抛る音、後はまたことり[#「ことり」に傍点]ともしない。八百八町の無韻《むいん》の鼾《いびき》が、耳に痛いほどの静寂《しずけさ》であった。
 この時、軒下伝いに来かかった一人の男、忍びやかに寄って近江屋の戸を叩いた。一つ、二つ、また三つ四つ――何の返事もない。時刻が時刻、これは返事がないはずだ。男は焦立《いらだ》つ。戸を打つ音が大きくなる。
「近江屋さん、ええもし、近江屋さんえ。」
 近辺《あたり》かまわず板戸を揺すぶったのがこの時初めてきいたとみえて、
「誰だい? なんだい今ごろ。」
 と内部《なか》から不服らしい小僧の寝呆け声。
「儂《わし》だ。約束だ、開けてくれ。」
「約束? 約束なんかあるわけはないよ。」
 戸を距《へだ》てての押問答。
「お前じゃわからない。御主人と約束があるんだ。待ってなさるだろ、奥へそ[#「そ」に傍点]言って此戸《ここ》開《あ》けてくれ。」
「駄目だよ、世間様が物騒だから閉《た》てたが最後大戸だけは火事があっても開けちゃあいけないって、今夜も寝る前に大番頭さんに言われたんだ。何てったって開けるこっちゃないよ。お帰り。朝おいで、へん、一昨日おいでだ! 誰だいいったいお前さんは?」
「誰でもいい。御主人か大番頭に会やあ解るこった。お前は小僧だろう、ただ取次ぎゃいいんだ。」
「馬鹿にしてやがる。お前は小僧だろってやがらあ。へへへのへん、だ。誰が取次ぐもんか。」
 小僧しきりに家の中で威張っていると、
「何だ、騒々しい、何だ!」
 と番頭でも起きて来た様子。
「あ、大番頭さんだ。」と小僧はたちまち閉口《へこ》んで、「だって、いとも[#「いとも」に傍点]怪しの野郎が襲って来てここを開けろ、開けなきゃどんどん[#「どんどん」に傍点]――。」
「やかましい。怪しの野郎とはなんです。お前はあっちへ引っ込んでなさい――はいはい、ええ、どなた様かまた何の御用か存じませぬが、このとおり夜更けでございますから明朝改めて御来店《おいで》を願いたいんで、へい。」
「あんたは大番頭の元七さん――。」
 戸外の男の息は喘ぐ。
「へえ、さようでして、あなた様は?」
「いや、今日はわざわざお越し下されて恐れ入りましたわい。で、早速ながら彼の一件物のこってすがの、今晩先方へこれこれこうと話をつけましたが、あんたの前だが儂もえ
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