お艶を始め因業家主の身辺には、それからひとしお黒い影がつきまとうこととなったのである。
相も変らず近江屋の前でお艶は唄う。唄いながら行人の袖を惹く。袖を惹いてはこのごろではこんなことを言う。
「妾《あたき》には立派な背後立《うしろだ》てがありますから、この近江屋を今に根こそぎ貰い返してくれますとさ。まま大きな眼で御覧じろ――。」
この背後《うしろ》立てが大家久兵衛であることは、誰からともなく一時にぱっ[#「ぱっ」に傍点]と拡がった。広い世間を狭く渡る身の上とはいえ、久兵衛の迷惑言わずもがなである。が、乗りかけた船、後へは引かれない。久兵衛、その代り前へ進んで一気に思いを遂げようとした。お茶漬を食べてひらりひらり[#「ひらりひらり」に傍点]と鉾先《ほこさき》を交し、お艶はなおも近江屋一件を頼み込んで帰る。元来《もとより》証文も何もない夢のような話、色に絡んでおだてて見たものの、自業自得の久兵衛、とんだお荷物を背負い込んだ具合で今さら引込みもつかず、ただこの上は遮二無二言うことを聞かせようと胸を擦《さす》って今宵を待っていた今日というこの十三日――待てば海路の何とやらで、これはまたど[#「ど」に傍点]えらい儲け口が、棚から牡丹餅に転げ込んで来た溢《こぼ》れ果報《かほう》。
昼のうち、それとなく因業御殿に張り込んでいた勘弁勘次は、何を聞いたか何を見たか、いつになくあわてふた[#「ふた」に傍点]めいて合点長屋へ駈け戻ったが、それに何かの拠所《よりどころ》でもあったかして、この夜の彦兵衛の仕事にはぐっ[#「ぐっ」に傍点]と念が入り、あのとおり近江屋から神田の代地、そこから正覚橋の向うへまでお艶を尾けて、引続き藤吉を先頭に、かくも闇黒を蹴っての釘抜部屋の総策動となったのだった。
町医らしい駕籠が一梃、青物町を指して急ぐ。供の持つぶら[#「ぶら」に傍点]提灯、その灯が小さくぼやけて行くのは、さては狭霧《さぎり》が降りたと見える。左手に聳える大屋根を望んで、藤吉は肩越しに囁いた。
「三つ巴の金瓦、九鬼様だ。野郎ども、近えぞ。」随う二つの黒法師、二つの頭が同時にぴょこり[#「ぴょこり」に傍点]と前方《まえ》へ動いた。
三
水のような月の面に雲がかかって、子の刻の闇は墨よりも濃い。鎧扉《よろいど》を下してひっそり寝鎮まった近江屋の前、そこまで来て三つの人影が三
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