びこんで来たばかりかあなたの口から近江屋へ全資産引渡しの件を交渉《かけあ》ってくれと泣いて頼んで動かないのだから、因業久兵衛、食指むらむら[#「むらむら」に傍点]と動いて悦に入ってしまった。二つ返事で承知《うけが》ってお茶漬を出すとじつによく食べた。その後で手を出すと、どっこい[#「どっこい」に傍点]この方はそう容易くは参らなかった。が、逃げられるほど追いたくなるのがこの道の人情とやら、ことにはなにしろき[#「き」に傍点]の字のこと、まあ急《せ》いては事を仕損じる。気永に待って取締《とっち》めようと、それからというもの、久兵衛は毎晩お艶を引き入れてお茶漬を食わせて口説いてみるが、お艶は近江屋のことを頼む一方、狂気ながらも途端場《どたんば》へ来るとうまくさらり[#「さらり」に傍点]とかい潜るのが例《つね》だった。
「いけねえ。久てき[#「てき」に傍点]まだお預けを食ってやがらあ。」
神田代地の忍びから帰って来ると、彦兵衛はこう言って舌を出した。鼻の頭を下から擦って勘次は我事のように焦慮《やきもき》していた。
お艶の身元については二つの論があった。ありゃあお前、番町のさる[#「さる」に傍点]旗本の一のお妾《てかけ》さんだが、殿の乱行を苦に病んでああもお痛わしく気が触れなすったなどと真実《まこと》しやかに言い立てる者もあれば、何さ、札《ふだ》の辻《つじ》辺りの煙草屋の看板娘が情夫《おとこ》に瞞されたあげくの果てでげす、世の娘にはいい見せしめでげす、なんかと斜に片付けて納まり返るしったかぶりもあったが、そんな詮議は二の次としても、何からどうして近江屋へこんな因縁をつけるようになったのか、これも狂気の気紛れと断じてしまえばそれまでだが事実《まこと》近江屋には背《うしろ》めたい筋合は一つもないのだから、狂女の妄念というのほかはないものの、それにしてもこうしつこく立たれては仏の顔も三度まで、第一客足にも障ろうというもの――海老床の腰高障子《こしだか》へ隠居が蝦の跳ねている図を絵いてから、合点長屋と近江屋とは髪結甚八を通して相当|昵懇《じっこん》の仲、そこで近江屋から使者《つかい》が立って、藤吉親分へ事を分けての願掛けとなった次第、頼まれなくてもここは一つ釘抜の出幕だ、親分さっそく、
「ようがす。ほまち[#「ほまち」に傍点]に白眼《にら》んどきやしょう。」
と大きく頷首いて、
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