縁へ切れて次郎兵衛店、小物師与惣次の家の前に立つと、ちゃあん[#「ちゃあん」に傍点]と格子が開いて人の居る気勢《けはい》。藤吉が振り返ると勘次は眼をぱちくり[#「ぱちくり」に傍点]させて頭をかいた。
 来たものだから念のため、
「御免なせえ、与惣さん宅かえ?」
「――――」
「与惣《よさ》さん。」
「は、はい。」
 という籠った返事。藤吉は勘次を白眼《にら》む。
「そら見ろ。」
 勘次はまた頭をかいた。と、
「どなたですい?」と家内《なか》から。
「あっしだ、合点長屋だ。どうしたえ?」
「へ? へえ。」
「瘧《おこり》か。」
「へえ、いえ、その、なんです――。」
「何だ。上るぜ。」
「さ、ま、なにとぞ。」
 ずい[#「ずい」に傍点]と通った藤吉、見廻すまでもなく一間きりの部屋に、油染みた煎餅蒲団を被って与惣次が寝ている。
「おうっ、この暑さになんだってそう潜ってるんだ?」
 近寄って見下ろす枕もと、夜着の下からちら[#「ちら」に傍点]と覗いたは、これはまた青々とした坊主頭!
「ややっ、与惣、丸めたな、お前。」
 聞くより早く掻巻《かいまき》を蹴って起き上った小物師与惣次、床の上から乗り出して藤吉の膝を抱かんばかりに、
「だ、旦那、聞いて下せえ!」
「なななんだ、何だよう。」
「聞いて下せえ。」
 と叫びざま、眼の色変えた与惣次は押えるような手付きをした。
「落ち着け。何だ。」
 戸外を背にして早口に話し出す与惣次、その前面に胡坐《あぐら》をかいた藤吉親分、暮れやらぬ表の色を眺めながら、上《あが》り框《がまち》に腰掛けた勘弁勘次は、掌へ吹いた火玉を無心一心に転がしていた。

      二

 成田の祇園会《ぎおんえ》を八日で切上げ九日を大手住《おおてずみ》の宿《しゅく》の親類方で遊び呆《ほう》けた小物師の与惣次が、商売道具を振分《ふりわけ》にして掃部《かもん》の宿へかかったのは昨十日そぼそぼ[#「そぼそぼ」に傍点]暮れ、丑紅《うしべに》のような夕焼けが見渡すかぎりの田の面に映えて、くっきりと黒い影を投げる往還筋の松の梢に、油蝉の音が白雨《ゆうだち》のようだった。
 朝までには八丁堀へ帰り着き中一日骨を休め、十一日にはまた家を出て十二日の王子の槍祭になんとしても一儲けしなくてはと、与惣次はひたすら路を急いでいた。
 河原を過ぎて大川、山王権現の森を左に望むころから、一人の若い女が後になり前になり自分を尾けているのに、与惣次は気が付いたのである。町家の新造のような、それでいて寺侍の内所《ないしょ》のようなちょっと為体の知れない風俗《つくり》だったが、どっちにしてもあまり裕福な生活の者とは踏めなかった。それが、さして気にも留めずに歩いていた与惣次も、中村町へはいろうとする月桂寺《げっけいじ》の前で背後から呼ぶ声に振り向いた時には、世にも稀なその女の美貌にまず驚いたのだった。
 女は道に迷っていた。三川島へ出る道を中腰を屈めて訊く白い襟足、軽い浮気心も手伝ってか、与惣次はきさく[#「きさく」に傍点]に呑み込んで、
「ようがす。送って進ぜやしょう。」
 とばかり、天王の生垣に沿うて金杉下町、真光寺の横から町屋村の方へ、彼は女を伴れて九十九折《つづらおり》に曲って行った。
 水田続きに寮まがいの控屋敷が多い。石川|日向《ひゅうが》様は横に長くて、この一構が通りを距てて宗対馬守《そうつしまのかみ》と大関|信濃守《しなののかみ》の二棟に当る。出外れると加藤|大蔵《おおくら》、それから先は畦のような一本路が観音《かんのん》浄正《じょうしょう》の二山へ走って、三川島村の空遠く道灌山の杉が夜の幕《とばり》にこんもり[#「こんもり」に傍点]と――。
 野菊、夏菊、月見草、足にかかる早露を踏みしだいて、二人は黙って歩《ほ》を拾った。
 こうして肩を並べて行くところ、落人《おちゅうど》めいた芝居気に与惣次はいい心持にしんみり[#「しんみり」に傍点]してしまったが、掃部《かもん》へ用達しに行った帰途だとのほか、女は口を緘《とざ》して語らなかった。内気らしいその横顔見れば見るほどぞっ[#「ぞっ」に傍点]とするような美しさに、独身の与惣次、われにもなく身顫いを禁じ得なかった。
 浄正寺門前へ出ていた。
「三川島はこの裏でさあ。」
 与惣次は女を返り見た。影も形もない。今の今までそこにいた女が、掻き消すように失くなったのである。
「おや!」
 何かを落しでもしたように、与惣次は足許を見廻した。が、ぶる[#「ぶる」に傍点]っと一つ身体を振って、
「狐か、悪戯《わるさ》をしやあがる。」
 ともと来た道へ取って返そうとした。その時、霧を通して見るようなほの[#「ほの」に傍点]赤い江戸の夜空に、大砲《おおづつ》のように鳴り渡る遠雷《とおなり》の響を聞いたことだけを与惣次
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