釘抜藤吉捕物覚書
槍祭夏の夜話
林不忘
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)土蔵破《むすめやぶ》り
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)人心|噪然《そうぜん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)に[#「に」に傍点]組の
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一
土蔵破《むすめやぶ》りで江戸中を騒がし長い草鞋を穿いていた卍《まんじ》の富五郎という荒事《あらごと》の稼人《かせぎて》、相州鎌倉は扇《おうぎ》が谷《やつ》在《ざい》の刀鍛冶《かたなかじ》不動坊祐貞《ふどうぼうすけさだ》方《かた》へ押し入って召捕られ、伝馬町へ差立てということになったのが、それが鶴見の夜泊りで獄口《ごくぐち》を蹴って軍鶏籠抜《とうまるぬ》けという早業を見せ、宿役人の三人も殺《あや》めた後、どうやらまたぞろお膝下へ舞い戻ったらしいとの噂とりどり。
その風評《うわさ》がいよいよ事実となって現れ、八百八町に散らばる御用の者が縁に潜り屋根を剥がさんばかりの探索を始めてからまる一月、天を翔《か》けるか地に這うか、たしかに江戸の水を使っているとの目安以外、富五郎の所在はそれこそ天狗の巣のように皆目《かいもく》当《あたり》が立たなかった。
人心|噪然《そうぜん》としてたださえ物議の多い世の様、あらぬ流言蜚語《りゅうげんひご》を逞《たくまし》うする者の尾に随いて脅迫《ゆすり》押込《おしこみ》家尻切《やじりきり》が市井《しせい》を横行する今日このごろ、卍の富五郎の突留めにはいっそうの力を致すようにと、八丁堀合点長屋へも吟味与力後藤|達馬《たつま》から特に差状《さしじょう》が廻っていた、それかあらぬか、ここしばらくは、釘抜藤吉も角の海老床の足すら抜いて、勘次彦兵衛の二人を放ち刻々拾ってくるその聞込みを台に一つの推量をつけようと、例になく焦《あせ》る日が続いていたが――。
夕陽を避けて壁際に大の字|形《なり》に仰臥した藤吉、傍に畏る葬式彦と緒《とも》に、いささか出鼻を挫《くじ》かれた心持ちで、に[#「に」に傍点]組の頭常吉の言葉に先刻から耳を傾けている。
家路を急ぐ鳥追いの破れ三味線、早い夕餉《ゆうげ》の支度でもあろうか、くさや焼く香がどこからともなく漂っていた。
三川島の浄正寺門前、田圃の中の俗に言う竹屋敷に卍の富五郎が女房と一緒に潜んでいることを嗅ぎ出したのが浅草馬道の目明し影法師《かげぼうし》の三吉、昨夜子の刻から丑へかけて、足拵えも厳重に同勢七人、鬨《とき》を作って踏み込んだまではいいが、奥の一間に、富五郎の屍骸《なきがら》に折り重なってよよ[#「よよ」に傍点]とばかりに哭き崩れる女房を見出しては、さすがに気の立った三吉一味もこのところ尠からず拍子抜けの体だったという。
実もって容易ならぬ常吉の又聞き話。三吉が捕方に向う六時も前、午過ぎの九つ半に、富五郎は卒中ですでに鬼籍《きせき》に入っていたのだとのこと。その十畳には死人の首途《かどで》が早や万端|調《ととの》って、三吉が御用の声もろとも襖を蹴倒した時には、線香の煙りが縷々《るる》として流れるなかに、女房一人が身も世もなく涙に咽《むせ》んでいるばかり、肝心の富五郎は氷のように冷く石のように固くなって、北を枕に息を引き取った後だった。
捕吏《とりて》の中には三吉始め富五郎の顔を見知った者も多かったから、紛れもなくお探ね者の卍の遺骸《むくろ》とは皆が一眼で看て取ったものの、残念ながら天命とあっては致し方がない。いろいろと身体を調べたがたしかに死んでいる。いくら生前が兇状持ちでも仏を罪するわけには行かない。それに夜明けにも間がないので、富五郎の屍体はひとまずそのまま女房へ預けておき、朝、係役人を案内して表向き首実検に供えた後、今日の内にも小塚原あたりに打捨《うっちゃり》になり、江戸お構いの女房の拾いでも遅くも夕方までには隠亡《おんぼう》小屋の煙りになろうという手筈――だったのが、それがどうだ!
「ささ、ここだて親分。」常吉は一人ではしゃいで、「これで鳧《けり》がつきゃあ、三尺高え木の空がお繩知らずに眼え瞑《つむ》ったんだからお天道様あねえも同然。ところがそれ、古いやつ[#「やつ」に傍点]だがよくしたもんで、そうは問屋じゃ卸さねえ。」
今朝、旦那衆の伴をして改めて富五郎の死顔を見届けに出向いた影法師三吉は、昨夜の家が藻脱《もぬ》けの空、がらんどう、入れておいた早桶《はやおけ》ぐるみ死人も女房も影を消しているのに、二度びっくり蒸返しを味わった。住人《すみて》は素より何一つ遺っていず、綺麗に掃除してあったとのこと。
「仏を背負って風|食《くら》ったのか。」
藤吉はむっくり[#「むっくり」に傍点]起き上った。
「へえ、死んでもお上にゃあ渡さねえてんで。」
「
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