ははっきり記憶えている。
気を喪った与惣次の身柄は覆面の男と先刻の女の手に依って、竹藪深く一軒家の奥座敷へと運び込まれた。
くどくど[#「くどくど」に傍点]と述べる女の言葉で与惣次はわれに返った。古びた十畳の間に、汚れてはいるが本麻《ほんあさ》の夜具を着て寝ている。枕元の鉄網行燈《かなあみあんどん》の灯影にほかならないあの女、道案内の礼事やら、悪漢《わるもの》に襲われて倒れたところを折よく良人《おっと》が来合せてこの家へ助け入れた仔細《いきさつ》をくり返しくり返し語り続ける。その良人というのも出て来てなにくれと懇切に見てくれた。たしかにどこかで見たような顔、そんなような気がするだけで、どこの誰か、果して真個《ほんと》に会ったことのある仁か、与惣次はいっこう思い出せなかった。咽喉が痙攣って物を言おうにも口が開かなかった。口は開いても声をだす術を忘れ果てていた。身体は鉛のように重かった。手の指一本が、とても[#「とても」に傍点]与惣次には動かせないほどだった。
今夜は泊ってゆっくり休んで行くようにと、男も女も口を揃えて言っているらしかったが、その声音がまるで水の底からでも聞こえて来るようだった。こう大儀じゃ夜道どころか寝返り一つ打てやしめえし、と与惣次は肚を据えた。まあ何家《どこ》でもいいや、今晩はここに厄介になれ――。
「儂はいささか薬事《やくじ》の心得があります。今、水薬を調じて上げるほどに、そいつを服してまずお気を鎮められい。よっく眠れることでござろう。」
主人は変な言葉遣いをした。どこかで見覚えのある顔、与惣次はしきりに考えたが、漸次にその力がなくなった。譬えば雪が解けるように、頭脳の働きが鈍くなってくるのである。それでも、主人の手が自分の口を割って冷茶のような水物《みずもの》を流し込んでくれたまでは、ぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]ながら薄眼で見ていた。
与惣次は眠った。夏の夜の更け行くままに、昏々として彼は眠り続けた、底無しの泥沼へ沈むような、自力ではどうすることもできない熟睡であった。
暗黒《やみ》の中にじいっとしているような心持だった。ときどき人声がした。枕頭を歩き廻る跫音も聞こえた。眼も少しは見えるようだった。と、そのうちに、泡が浮んで破《こわ》れるように、与惣次はぽっかり[#「ぽっかり」に傍点]と気がついた。
真夜中である。
油を吸う燈心の音、与惣次は首を廻《めぐ》らした。身の自由も今は幾らか返ったらしい。が、起き上ることはできなかった。枕から見渡す畳の上、羽虫の影が点々としている下に、倒屏風《さかさびょうぶ》が立ててあるのが、第一に与惣次の眼に入った。寝ている敷物はいつしか荒筵《あらむしろ》に変っている。瞳を凝らしてなおも窺えば、枕に近い小机に樒《しきみ》が立ち、香を焚き、傍には守刀《まもりがたな》さえ置いてあり、すこし離れて、これは真新しい早桶、紙で作った六|道銭形《どうせんがた》まで揃っている工合い。
「こりゃあひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると知らねえ中に俺あ死んだのかな。」
与惣次は思った。「それにしてもいやに手廻しが早えこったが――。」
唐紙が開いて女がはいって来た。与惣次を見て驚いている。手を上げて何かの合図。続いて主人が現れた。湯呑を持っている。そしていきなり、馬乗りに股がったかと思うと、手早く煎薬のような物を与惣次の口へ注ぎ込んだ。
氷である。
氷の山、氷の原、氷の谷、空々漠々たる氷の野を、与惣次は目的《めあ》てなく漂泊《さすら》い出した。時として多勢の人声がした。荒々しい物音もした。簀巻《すま》きのように転がされている感じがした。穴へはいるような感じもした。ただそれだけだった。
森である。林である。緑である。
氷が解けるとたちまち鬱蒼たる樹木だ。冬から真夏へ飛んだ気持ち、与惣次は草を分けて進んだ。木の間を縫って歩いた。行っても行っても一色のみどり、尽きずの森、果てしない草原、与惣次は悲しくなった。泣きながら駈け出した。子供のように涙が頬を伝わった。拭いても拭いても留途なく流れた。溜って溢れて淀んで、そこに一筋の川となった。泪《なみだ》の河ではある。
満々たる大河だ。
向岸に茅葺《かやぶき》の家が立っている。よく見ると小田原在の生家だ。三年前に死んだ白髪《しらが》の母が立っている。小手を翳《かざ》して招いている。弟もいる。妹もいる。幼馴染みもいる。みんなで与惣次を呼んでいる。
与惣次は答えようとした。声が出なかった。自分と自分が哀れになって、彼は根限り哭《な》き喚《わめ》いた。後からあとからと大粒な涙がこみ上げて来た。それが河へ落ちた。水量《みずかさ》が増した。浪となってひたひた[#「ひたひた」に傍点]と与惣次の足を洗った。思いきって与惣次は跳び込んだ。
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