流れた。流れた。ただ流れた。
 笹舟のように、落葉のように、与惣次は水面を押し流された。どこまでもどこまでも流れて行った。
 仰向きに見る空は青かった。運命、そう言ったようなものを考えて、与惣次は水に身体を任せていた。
 右手の岸には巍峨《ぎが》たる氷山が聳えている。左は駘蕩《たいとう》たる晩春初夏の景色、冷い風と生暖い温気とがこもごも河づらを撫でる。川の水も真ん中で二つに分れて、左は湯のように熱く、右寄は雪解《ゆきどけ》のようにひややかだった。その中央の一線に乗って、与惣次は矢のように走り下った。
 早い。早い。早い人筏《ひといかだ》である
 やがて左岸の土手に彼の女が立ち出でた。笑いながら綱を抛った。端が与惣次の首に絡んだ。与惣次は引き揚げられた。
 女の姿は見えない。森の向うがぽう[#「ぽう」に傍点]っと赤らんでいる。それを眼当てに与惣次は急いだ。近付くにつれ明るさは増してくる。与惣次は遮二無二突き進んだ。いつしか光りの中へ包まれた。
 黎明《よあけ》だ!
 縁《えん》の障子に朝日が踊る――と思った与惣次は、身の廻りの騒がしさにふ[#「ふ」に傍点]と人心ついたのである。
 商家の並ぶ街道に彼はひとり立っていた。眼隠していたものと見えて、足許に古手拭が落ちている。衣類荷物身体の工合い、何の異状もない。
 魚売り担《かつぎ》八百屋、仕事に出るらしい大工左官、近所の女子供からさては店屋の番頭小僧まで、総出の形で遠く近く与惣次を取り巻いた。
 鳥越へ一伸《ひとの》しという山谷の町であった。皆口々に囁き合って、与惣次の頭部を指して笑っていた。手をやってみると頭は栗々坊主だった、一夜のうちに綺麗に剃られていた。
 恥かしくなった与惣次がやにわに駈け出そうとすると、重い袱紗《ふくさ》包みが懐中から抜け落ちた。拾って開けると小判が五両に添手紙一封。狂気のように真一文字に自家に帰った与惣次、何が何やらわからぬ中にも怪我と失物《うせもの》のないのを悦び、金子と手紙は枕の下へ押し込んで、今度こそは真実《ほんと》に死んだようにぐっすり[#「ぐっすり」に傍点]眠り、ちょうど今眼が覚めて表戸を開けたところだという。――
 与惣次は仮名すら読めなかった。
「旦那、ここにあります。金五両に件の状、へえ、このとおり。」
 長話を済ました与惣次は、こう言って藤吉の前へ袱紗包みを投げ出した。戸口から洩れてくる夕陽の名残りへ手紙を向けて、藤吉は口の中で読み出した。
「与惣さん。」勘次が上《あが》り框《がまち》から声をかける。「先刻小太郎が見えてね、戸が締ってて、いねえようだからって先へ行きやしたよ。」
「あ、眠ってたもんだから、つい――。」
「お前さん槍祭あすっぽかし[#「すっぽかし」に傍点]けえ?」
「へ?」
「槍祭よ。明日あ王子の槍祭じゃねえか。どうした。出ねえのかよ?」
「へえ――あそうそう、なに、これからでも遅かあげえせん。では一つ――。」
 与惣次は腰を浮かした。すぐにも小太郎の跡を追う気と見える、その膝の上へ手を置いて、釘抜藤吉は冷やかに言った。
「まあさ、与惣公、待ちねえってことよ。これ、大枚の謝礼を受けたに、そう慌てくさ[#「くさ」に傍点]って稼ぐがものもなかろうじゃねえか。おう、それよりゃあこの手紙だ、読んでやるから、さ、しっかり聞きな。」

      三

「この文《ふみ》御覧のころはわたしども夫婦はおしりに帆上げたあとと思召し被下度以下御不審を晴さむとてかいつまみ申述候|大手住《おおてずみ》にてお前さんをお見かけ申しあまり夫と生うつしなるまま夫の窮場を救わんとの一芝居打ちお前さんをくわえこみ夫の手をかりて妖薬《ようやく》をあたえかみの毛をあたって死んだと見せ夫の身代に相立申候段重々|不相済《あいすまず》とは存候共これひとえに夫なる卍の富五郎を落しやらんわたしのこんたん必ずおうらみ被下間敷《くだされまじく》ただただ合掌願上奉候金子些少には候えども一夜の悪夢の代としてなにとぞお納め被下度尚当夜あたりお手入のあるべきことはわたし共の先刻承知女房のわたしでさえ取違えそうなお前さんへお引合せ下すったは日頃信ずる五右衛門さまのれいけん夫の悪運のつよいところ今ごろ探したとて六日の菖蒲《あやめ》十日の菊無用無用わたしゃ夫とふたり手に手をとり鳴く吾妻のそらをあとにして種明しは如依件《よってくだんのごとし》お前さんも生々無事息災に世渡りするよう昨夜のことを忘れずに末永く夫ともども祈上申候あらあらかしく――卍女房巴のお若より。」
 読み終った藤吉、片膝立てて与惣次を見上げ、
「合点がいったか。お前は卍にそっくりだてんで、昨夜|傀儡《けえれい》に使われたんだ。」
「えっ!」
 与惣次は眼を真んまるにして、
「どこかで見た面だたあ感ずりましたが、言われてみりゃあ
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