からのう、容貌《そつぼう》見識《みし》っとく分にゃ怪我はあるめえってことよ。うん、それよりゃあ彦、手前の種ってえのを蒸返し承わろうじゃねえか。」
 久し振りに狸穴町《まみあなちょう》の方を拾ってみようと思い立った葬式彦兵衛が、愛玩の屑籠を背にして金杉三丁目を戸田|采女《うねめ》の中屋敷の横へかかったのは、八丁堀を日の出に発った故か、まだ竈《かまど》の煙が薄紫に漂っている卯の刻の六つ半であった。寺の多い淋しい裏町、白い霧を寒々と吸いながら、御霊廟《おたまや》の森を右手に望んで彦兵衛は急ぐともなく足を運んでいたが、ふとけたたましい烏の羽音とそれに挑むような野犬の遠吠えとでわれにもなく立竦んだのだった。随全寺《ずいぜんじ》という法華宗の檀那寺《だんなでら》の古石垣が、河原のように崩れたままになっている草叢のあたりに、見廻すまでもなく、おびただしい烏の群が一|集《かた》まりになって降りて宿無犬が十匹余りも遠巻きに吠え立てている。犬が進むと烏が飛び立ち、烏が下りれば犬が退く。その争いを彦兵衛は往来からしばらく眺めていた。御霊廟を始め、杉林が多いから、烏はこの辺では珍しくないが、その騒ぎようの一方
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