「いえ、ちょっくら耳打ちでがす。」
 腰の豆絞《まめしぼ》りを脱って顔を拭くと、彦兵衛は藤吉の傍へいざり寄った。
「常さん、ま、御免なせえよ。」と、将棋の相手の方へ気軽に手を振った藤吉は、「こうっ、雨の降る日にゃあ、こちとら気が短えんだ。彦、さっさ[#「さっさ」に傍点]と吐き出しねえ。」
 右手を屏風にして囲った口許《くちもと》を、藤吉の左鬢下へ持って行くと、後は彦兵衛の咽喉仏《のどぼとけ》が暫時上下に動くばかり――。苗売りの声が舟松町を湊町の方へ近付いてくるのを、勘次は聞くともなしに放心《ぼんやり》聞いていた。
 と、藤吉が突然大声を出した。
「繩張りゃあ誰だ?」
「提灯屋でげす。」
 彦兵衛も口を離した。
「提灯屋なら亥之吉《いのきち》だろうが、亥之公なら片門前《かたもんぜん》から神明金杉、ずっ[#「ずっ」に傍点]と飛びましては土器町《かわらけちょう》、ほい、こいつあいよいよ勘弁ならねえ。」
 と訳も知らずにはしゃぎ始める勘次の差出口を、
「野郎、すっ[#「すっ」に傍点]込んでろい!」と一喝しておいて、藤吉は片膝立てて彦兵衛へ向き直った。
「土地から言やあ提灯屋の持場だ。旦那衆のお声もねえのに渡りをつけずにゃ飛び込めめえ。」
「ところが親分。」と彦兵衛はごくり[#「ごくり」に傍点]と一つ唾を飲み込んで、「その亥之公の願筋《がんすじ》であっし[#「あっし」に傍点]がこうしてお迎えに――。」
「来たってえのか?」
「あい。」
「仏は?」
「新《あら》も新、四時《よとき》ばかりの――。」
「うん。現場は?」
「提灯屋の手付きで固めてごぜえます。」
「よし。」と釘抜藤吉が立ち上った。五尺そこそこの身体に土佐犬のような剽悍《ひょうかん》さが溢れて、鳩尾《みぞおち》の釘抜の刺青が袷《あわせ》の襟下から松葉のようにちらと見える。
「常さん、お聞きのとおり、この雨降りに引っ張り出しに来やがったよ。ま、勝負はお預けとしときやしょう――やい、奴」と軽く足許の勘次を蹴って、「一っ走りして長屋から傘を持ってこい。」

      二

「酒《ささ》がこうしてついそれなりに、雑魚寝《ざこね》の枕《まくら》仮初《かりそめ》の、おや好かねえ暁《あけ》の鐘――。」
 神田の伯母からふんだくった一枚看板と、この舞台《いた》についた出語りとで、勘次は先に立って三十間堀を拾って行った。
 乾すつ
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