。それらを多くの場合推理一つで快刀乱麻の解決を与えていた。名古屋の金の鯱《しゃちほこ》にお天道様が光らない日があっても、釘抜藤吉の睨んだ犯人《ほし》に外れはないという落首が立って、江戸の町々に流行《はや》りの唄となり無心の子守女さえお手玉の相の手に口吟《くちずさ》むほどの人気であった。
 江戸っ児の中でも気の早いいなせ[#「いなせ」に傍点]な渡世の寄り合っている八丁堀の合点長屋の奥の一棟が、藤吉自身の言葉を借りれば、彼の神輿の据え場であった。が、藤吉に用のある人は角の海老床へ行って「親分え?」と顔を出す方がはるかに早計《はやみち》であった。髪床の上り框《がまち》に大胡坐をかいて、鳶の若い者や老舗の隠居を相手に、日永《ひなが》一日将棋を囲みながら四方山《よもやま》の座談を交すのが藤吉の日課であった。その傍に長くなって、ときどき障《つか》えながら講談本を声高らかに読み上げるのが、閑の日の勘弁勘次の仕事でもあった。もう一人の下っ引き葬式《とむらい》彦兵衛は紙屑籠を肩に担いで八百八町を毎日風に吹かれて歩くのが持前の道楽だったのだった。
 自宅《うち》へも寄らずにその足で海老床へ駈けつけた勘次は
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