し》であったが腕にだけ不思議な金剛力があって柱の釘をぐい[#「ぐい」に傍点]と引っこ抜くとは江戸中一般の取り沙汰であった。これが彼を釘抜と呼ばしめた、真正《ほんとう》の原因であったかもしれないが、本人の藤吉はその名をひそかに誇りにしているらしく、身内の者どもは藤吉の鳩尾《みぞおち》に松葉のような小さな釘抜の刺青のあることを知っていた。現今《いま》の言葉で言えば、非常に推理力の発達した男で、当時人心を寒からしめた、壱岐殿坂《いきどのざか》の三人殺しや、浅草仲店の片腕事件などを綺麗に洗って名を売り出したばかりか、そのころ江戸中に散っていた大小の目明し岡っ引の連中は、大概一度は藤吉の部屋で釜の下を吹いた覚えのある者ばかりであった。実際、彼等の社会ではそうした経験がなによりの誇りであり、また頭と腕に対する一つの保証でもあった。で、繩張りの厳格な約束にもかかわらず、彼だけはどこの問題へでも無条件で口を出すことが暗黙の裡《うち》に許されていた。が、自分から進んで出て行くようなことは決してなかった。その代り頼まれればいつでも一肌脱いで、寝食を忘れるのが常であった。次から次と方々から難物が持ち込まれた。それらを多くの場合推理一つで快刀乱麻の解決を与えていた。名古屋の金の鯱《しゃちほこ》にお天道様が光らない日があっても、釘抜藤吉の睨んだ犯人《ほし》に外れはないという落首が立って、江戸の町々に流行《はや》りの唄となり無心の子守女さえお手玉の相の手に口吟《くちずさ》むほどの人気であった。
 江戸っ児の中でも気の早いいなせ[#「いなせ」に傍点]な渡世の寄り合っている八丁堀の合点長屋の奥の一棟が、藤吉自身の言葉を借りれば、彼の神輿の据え場であった。が、藤吉に用のある人は角の海老床へ行って「親分え?」と顔を出す方がはるかに早計《はやみち》であった。髪床の上り框《がまち》に大胡坐をかいて、鳶の若い者や老舗の隠居を相手に、日永《ひなが》一日将棋を囲みながら四方山《よもやま》の座談を交すのが藤吉の日課であった。その傍に長くなって、ときどき障《つか》えながら講談本を声高らかに読み上げるのが、閑の日の勘弁勘次の仕事でもあった。もう一人の下っ引き葬式《とむらい》彦兵衛は紙屑籠を肩に担いで八百八町を毎日風に吹かれて歩くのが持前の道楽だったのだった。
 自宅《うち》へも寄らずにその足で海老床へ駈けつけた勘次は
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