釘抜藤吉捕物覚書
のの字の刀痕
林不忘

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)飛鳥山《あすかやま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二十|時《とき》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)むずむず[#「むずむず」に傍点]していた
−−

      一

 早いのが飛鳥山《あすかやま》。
 花の噂に、横町の銭湯が賑わって、八百八町の人の心が一つの陽炎《かげろう》と立ち昇る、安政三年の春未だ寒いある雨上りの、明けの五つというから辰の刻であった。
 唐桟《とうざん》の素袷《すあわせ》に高足駄を突っ掛けた勘弁勘次は、山谷の伯父の家へ一泊しての帰るさ、朝帰りのお店者《たなもの》の群の後になり先になり、馬道から竜泉寺の通りへ切れようとして捏《こね》返すような泥濘を裏路伝いに急いでいた。
 伊勢源の質屋の角を曲って杵屋助三郎と懸行燈に水茎《みずぐき》の跡細々と油の燃え尽した師匠家の前まで来ると、ただごとならぬ人だかりが岡っ引勘次の眼を惹いた。
「何だ、喧嘩か、勘弁ならねえ。」
 綽名《あだな》にまで取った、「勘弁ならねえ」を連発しながら、勘弁勘次は職掌柄人波を分けて細目に開けた格子戸の前に立った。
 江戸名物の尾のない馬が、勝手なことを言い合っているその言葉の端ばしにも、容易ならぬ事件の突発したことが窺われた。
「おや、お前さんは八丁堀の勘さんじゃねえか。」
 こう言ってその時奥から出て来たのは、少し前まで合点長屋の藤吉の部屋で同じ釜の飯を食っていた影法師の三吉であった。彼は藤吉の口利きで今この界隈の朱総《しゅぶさ》を預る相当の顔役になっていたものの、部屋にいたころから勘次とはあまり仲の好い間柄ではなかった。まして繩張りがこう遠く離れてからというものは、かけ違ってばかりいて二人が顔を会わす機会もなかったのであった。
「何だ、喧嘩か、勘弁ならねえ。」
 勘次は内懐から両手を出そうともせず、同じことを繰り返していた。
「相変らず威勢がいいのう。」
 冷笑《ひやか》すような調子で笑いながら、
「なにさ自害があったのさ。」
 と三吉は事もなげにつけたした。
「自害か、面白くもねえ。して――髱《たぼ》か、野郎か?」
 それでもいくぶん好奇心をそそられたと見えてこう訊き返しながら、ふと勘次は格子内の土間の灰溜りに眼をつけ
次へ
全11ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング