た。
「血だな。」
彼は独言のように言った。
「おおさ、この所で腹を突いたと見えて、俺が来た時は、もう黒くなりかけた血の池で足の踏場もねえくらいの騒ぎよ。」
はいって検分したさに勘次はむずむず[#「むずむず」に傍点]していたが、自分から頼むのは業腹《ごうはら》だった。その様子を見て取ったものか昔の誼《よしみ》から三吉は、勘次を招じ入れて台所へ案内して行った。途みち畳の上に黒ずんだ斑点が上り框《がまち》から続いているのを勘次は見逃さなかった。
台所の板の間に柄杓の柄を握ったまま男が倒れていた。傍に鉄瓶が転がっていて、熱湯を浴びたものか、男の顔は判別がつかないほど焼け爛《ただ》れていた。腹部の傷口から溢れ出た血が板の合せ目を伝わって裏口に脱ぎ捨てた駒下駄まで垂れていた。鉄の錆のような臭気《におい》に狭い家のなかは咽《む》せ返るようだった。綿結城《めんゆうき》に胡麻柄唐桟の半纏《はんてん》を羽織って白木の三尺を下目に結んでいる着付けが、どう見ても男は吉原《なか》の地廻りか、とにかく堅気の者ではなかった。右の腹を左手で押えたまま、右の手は流しもとの水甕へ伸びていた。水を呑みに台所まで這って来たものらしかった。手近いところに血だらけの出刃庖丁が落ちていた。
「此家《ここ》の助さんの兄貴で栄太という遊人でさあ。お神輿《みこし》栄太ってましてね。質《たち》のよくねえ小博奕打ちでしたよ。いずれ約束だろうが、まあ、なんて死にざまをしたもんだ。」
傍に立っていた差配の伊勢源が感慨無量といった調子で説明の言葉を挾んだ。この家の主人《あるじ》は杵屋助三郎という長唄の師匠だが、一昨日の暮れ六つに近所へ留守を頼んだまま女房のお銀と甲府在の親元へ遊びに行って不在であった。栄太の死体が納豆売りの注進によって発見されたのは、今日の引明けで、表土間の血溜りから小僧が不審を起したのであった。家は内部《なか》から巌畳《がんじょう》に戸締りがしてあった。それでまず自殺ということに三吉始め立会人一同の意見が一致したわけであるが覚悟の自害とすればなぜわざわざ通りに近い表玄関を選んだか、それに切腹用に供したと思われる刃物が現場から台所まで運ばれていることも、不思議の一つに算《かぞ》えられた。入口で腹を突いた人間が刃物を掴んだまま裏まで這ってくるということはちょっとありそうもなかった。が、夢中で握っていたと
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