かけて、お美夜ちゃんがにわかに涙ぐむようすなので、越前守はやさしくのぞきこみ、
「コレ、いかがいたした。その孤児のチョビ安とやらが、どうしたというのじゃ」
お美夜ちゃんはすすりあげて、
「あたい、自分の物なんか何もいらないの。お人形も、お着物《べべ》もいらないから、そのチョビ安兄ちゃんのお父《とっ》ちゃんとお母《っか》ちゃんを、探しだしてくださらない?」
チョビ安を思う純真な気持……子供ながらも、それが眉のあいだに漂っているのを、忠相はじっとみつめていたが、
「ウム、このお奉行のおじちゃんが引き受けた。きっと近いうちに、そのチョビ安とやらの両親を見つけだしてやるであろう」
「ありがとうよ、小父ちゃん」
お美夜ちゃんはもう涙声で、
「まあ、そうしたら、チョビ安兄ちゃんは、どんなに喜ぶことだろう!」
「ウム、明日《あす》かならずお美夜ちゃんにも、うれしいことがあるぞ」
と忠相は、手をうって用人の伊吹大作を呼びよせた。そして駕籠を命じて、すぐお美夜ちゃんをトンガリ長屋へ送らせたのだったが……。
この越前守様の言葉は、翌日さっそく、あのお美夜ちゃんがいらないと言ったお人形やら、美しい着物やらの贈り物となって、あのきたない作爺さんの家へ持ちこまれ、ほんとうにお美夜ちゃんを狂喜させたのだった。
が、それは、あとのこと。
お美夜ちゃんを帰すとすぐ、急に、忠相《ただすけ》の顔に真剣の色がみなぎった。
「いつもながらたのもしい泰軒じゃ。言葉を番《つが》えたことは、かならず実行する。どうして手に入れたか知らぬが、四方八方から眼の光っておるこのこけ[#「こけ」に傍点]猿、よくも泰軒の手に落ちたものじゃ」
忠相は壺をかかえて、静かに居間へもどった。
燭台《しょくだい》を引き寄せて、壺の蓋をとった。
この壺のなかには。
柳生の先祖がどこかに埋ずめてある、何百万、何千万両かの大財産の所在《ありか》を示す古い地図が、はいっているはず。
そして。
その秘図一つに、いまや柳生一藩の生命がかかり、また、いつの世も変わらぬ我欲妄念《がよくもうねん》の渦がわきたっているのだ。
パッと壺の蓋をとった越前守、中をのぞいた。
と、何ひとつはいっていないではないか!
灯のほうへ壺の口を向けて、もう一度中をしらべてみた。
狭い壺のなか、一度見てないものは、二度見てもない。すると、
「ハハア、そうか……」
忠相のおだやかな顔が、ニッコリほころびた。
五
柳の影が、トロリと水にうつって、団々《だんだん》たる白い雲の往来《ゆきき》を浮かべた川が、遠く野の末にかすんでいる。
三方子川《さんぼうしがわ》の下流は、まるで水郷のおもかげ……。
鳴きかわす鶏《とり》の声で、夜が明けてみると、あちこちに藁葺きの家が三軒、四軒。
渡しの船頭や、川魚をとる漁師の住いだ。
その一つ――。
前の庭には網をほし、背戸口から裏にかけては畑がつくってあろうという、半農半漁の檐《のき》かたむいた草屋根です。
「どうじゃな、お客人。気がつかれましたかな」
火のない炉ばたに大あぐらをかいて、鉈豆煙管《なたまめぎせる》でパクリ、パクリ、のんきにむらさきのけむりをあげていたこの家《や》の主人《あるじ》、漁師|体《てい》のおやじが、そう大声に言って、二間《ふたま》きりないその奥の部屋をふりかえった。
「ウウむ……」
とその座敷に、うめき声がわいて、
「オオ! ここはどこだ!」
誰やら起きあがったようす。おやじはのそり[#「のそり」に傍点]と立って行って、奥の間をのぞく。不愛想だが、人のよさそうな、親切らしい老人だ。
「ウム、どうじゃな、気分は」
すると……。
ふしぎなこともあるものです。床の上にけげんな顔をしてすわっているのは、丹下左膳――この漁師の家で着せられたらしい、継《つ》ぎはぎだらけのゆかたを着て、一眼を空《くう》に見はり、ひとりごと。
「あの川床の天井が落ちて、ドッと落ちこむ水にあおられ、運よく穴から川面へ浮きあがったまではおぼえているが――」
いぶかしげにあたりを見まわした左膳、横の床に、まだあおい顔をして死人のごとく昏々《こんこん》とねむっている柳生源三郎に眼が行くと、
「オオ、貴公もぶじだったか」
まったく、奇跡というほかはない。
一条の穴から落ちこむ水は、刻々に量《かさ》をまして、胸をひたし、首へせまり――ぬけ出るみちといっては、高い天井に、落ちてきたときの堅坑《たてあな》が、細くななめに通じているだけ、この生きうめの穴蔵が水びたしになっては!
左膳も源三郎も、そう覚悟をきめた。チョビ安は地面で、一人でかけまわっているらしいが、救いの手はのびてきそうもない。
頭の上には、三方子川の激流が流れている。
と、このとき、まるで最期の宣告をくだすように、その川底が破れ落ちたのである……すさまじい勢いで。
土砂と川水とが、一度にドッと落ちかかったのだが、そのあおりで流れ落ちる水に巻かれながら、左膳は無意識に三方子川へ浮かびあがったのである――たった一つの左腕に、ぐったりとなっている源三郎のからだを、しっかり抱きかかえたまま。
これが最期と思ったのが、かえって、生へひらく唯一の道だったのだ。
流れただようまも、左膳は源三郎をはなさなかった。この家の親爺の六兵衛が、夜の川釣りに、その下流に糸を垂れていて、浮きつ沈みつしてくる二人を見つけるが早いか、近所の者の手を借りて舟を出したのである。
救い上げたときは、左膳も源三郎も、すっかり意識をうしなっていた。隻眼隻腕の異様な浪人姿と、由緒《ゆいしょ》ありげな美男の若侍と今夜の夜釣りには、ふしぎな獲物があったものだと、六兵衛はそのまま、二人をこの自宅に運びいれて、まず、濡れた着物を着かえさせ、一晩ねんごろに看病して、……サテ、この朝である。
「お同伴《つれ》はまだ気を失っておるようじゃの。まあ、こんなところだが、ゆるゆる逗留《とうりゅう》して、からだの回復をお待ちなせえ」
「オオオ、そうだ。こけ猿――ウウム、こけ猿を……!」
と、思い出したように、左膳がうなった。
六
引き潮、満ち潮……。
港の岸に立って、足もとの浪を見おろす人は、その干満の潮にのって、いろいろの物が流れよっているのを見るであろう。
緒《お》の切れた下駄、手のとれた人形、使いふるした桶《おけ》、など、など、など……そのすべてが、人間の生活に縁の近いものであることが、いっそう奇怪な哀愁感をよぶ。
港の潮は、何をただよわしてくるかしれない。
大江戸は、人間の港なのだった。
海に、港に、潮のさしひきがあるように、この大江戸にも、眼に見えない人間のみち潮、ひき潮――。
お美夜ちゃんという小さな人間の一粒が、こけ猿の壺をしょって飛ぶ鳥を落とすお奉行大岡越前守様のお前に現われたのも、その人間の港の潮のなす、ふしぎな業《わざ》であったといえよう。
また。
自分の背中の、きたない古い茶壺のなかに、そんな何百人、何千人の大人たち――伊賀の侍たちをはじめ、こわいお侍《さむらい》さんの大勢に、こんな生き死にの騒ぎをさせるような、巨万の財宝がかくされてあろうなどとは、もとより知るよしもないお美夜ちゃん……まるで、塗りのはげた木履《ぽっくり》に小判がのっかって、港の石垣に流れよって来たようなもの。
そして、一方では。
三方子川の漁師|六兵衛《ろくべえ》の網に、隻眼隻腕の痩せ浪人と、青白い美男とが引っかかった――。
たいへんな獲物。
これも、人間の港のはかり知ることのできない、浪の動きというべきであろう。
人間の港は、雨につけ風につけ、三角浪をたて、暗く、明るくさかまいて、思いもよらない運命のはしはしを、その石垣の岸へうち寄せる……お江戸八百八町の潮のふしぎ。
千代田の濠《ほり》はいかに深く、その城壁はどんなに高くとも、この、人間の港の潮を防ぐことはできない。
お庭をわたる松風の音《ね》と、江戸の町々のどよめきとが、潮騒《しおさい》のように遠くかすかに聞こえてくる、ここは、お城の表と大奥との境目――お錠口《じょうぐち》。
おもては、政務をみるお役所。大奥は将軍の住い。
その中間の関所ともいうべき、このお錠口は、用向きはいちいちここで取り次いで、なんびとといえどもかってに出はいりを許されない。
なんびとといえども――と言ったがただ一人の例外は、例の千代田の垢すり旗本、愚楽老人だ。
お錠口をはいったお廊下のすぐ横手に、お部屋をいただいて、そこに無礼ごめんをきめこんでいるのが、天下にこわい者のない愚楽さん。
今も。
老人|腹這《はらんば》いになって、何か書見をしている。
まだ宵の口。
実にどうもこっけいな光景です。三尺そこそこの、まるで七、八つのこどものようなからだに、顔だけはいっぱし大きな分別くさい年よりづら。それが、背中に大きなこぶをしょって、お部屋の真ん中にペタンと寝そべり、両足でかわるがわるパタン、パタンと畳をたたきながら、しきりにしかつめらしい漢籍を読んでいる。
お城でこんな無作法な居ずまいをする者は愚楽老人のほかにはない。
これは、まず、怪異なかっこうをした亀の子が、上げ潮にうちあげられてきれいな砂浜で日向《ひなた》ぼっこをしている形。
とたんに、そとの廊下を、やさしい跫音《あしおと》がすべるように近づいて来たかと思うと、静かにふすまを開いて、顔をのぞかせたのは、奥女中の一人だ。
「あの、南のお奉行様が、至急御老人にお眼にかかりたいとのことで……」
玉手箱《たまてばこ》
一
夜分、大岡越前が、至急自分に会いたい……と聞いた愚楽老人《ぐらくろうじん》、スックとたちあがった。
スックと――なんていうと、馬鹿に背《せい》が高いようですが、三尺ほどの愚楽老人なんですから、たてになっても横になっても、たいした違いはないんで。
壺! こけ猿!
と、すぐピンと頭脳《あたま》にきたが、静かな声で女中へ、
「どうぞこれへお通しくだされ」
と言った老人、チョコチョコと隅へ行って、衣桁《いこう》に掛けてある羽織をひっかけた。
葵《あおい》の御紋これ見よがしの、拝領のお羽織。
愚楽さんは、この羽織を着なければ人に会わないことにしているんです。子供みたいなからだに、大人《おとな》の羽織をはおったのだから、まるで打ちかけをひきずったよう――しかつめらしい渋い顔で、ピタリ着座して待ちかまえているところへ、
「御老人、こちらかな?」
微笑をふくんだ越前守の声。
つづいて、音もなくふすまがすべって、恰幅《かっぷく》のいい忠相《ただすけ》の姿が、うす闇をしょってはいってきた。老人の眼は、あわただしく、この夜の訪問者の手もとへゆく。が、忠相は何も持っていない……。
手ぶら?
と、愚楽老人の顔に失望の色がはしったとき、
「大作、其品《それ》をそこへ置いて、その方は溜りで待つがよい」
忠相がうしろを振りかえって言った。用人の伊吹大作がついてきていたのだ。声に応じて大作は、大きな箱包みを室内へすべらせておいて――無言。
平伏。愚楽老人に挨拶したのち、あとずさりにさがってゆく。
壺の包みを引きよせた越前守忠相は、愚楽の前に静かに座をかまえて、いつまでもほほえんでいる。
「――――?」
と、愚楽老人は、眼できいた。
「例の品でござるか、越州殿《えっしゅうどの》」
「まあ、さようで」
「ホホウ、どうしてお手に?」
「かの泰軒が引き受けた以上、成らぬということはありませぬ」
愚楽老人は、それを心から肯定するように、大きくうなずいたのち、
「シテ、その泰軒は、いかなる手段により、いかなる方面より壺を入手したものでござろうのう」
「サア、それは……小娘が使者となって持ってきただけで、委細のことはわかりませんが――」
言いながら忠相は、壺の風呂敷をときにかかる。
おしとどめた愚楽老人、
「貴公、壺をひらいてごらんになったか」
「ウム、いかに
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