乏人でも、腹巻きや下帯は、切りたての晒《さら》し木綿のりゅう[#「りゅう」に傍点]としたのを身につけている。
それをつなぎ合わせましたから、ここに長い一本の綱ができた。
即製の、いのち綱。
「さぐりを入れるんだ。先に、何か引っかけるものをつけなくっちゃアならねえ」
もう、足を洗うぬかるみの中に立って、一同は死にもの狂いの働きだ。
誰かが、焼け跡から桶《おけ》のたがを見つけてきた。それを、そのつないだ帯のさきに結びつけたが、これだけでは、水のなかへ沈んでいかない。
「重りをつけろ」
というので、そのまたたがへ、てごろの石をゆわいつけた。
このふしぎな命綱を、静かに穴の水中へおろしてやるのだ。あせる心をおさえつつ。
へんな夜釣りがはじまった。
「手ごたえはねえか」
地引き網のように、五、六人で綱のはしを持ってたぐりおろしてゆくと、しばらくして、
「ウム、重くなったぞ! 何か引っかかった」
ソレ、あげろ、引きあげろ……と言うんで、勢いこんで、ひっぱりあげてみると、何と! 大きな岩が桶のたが[#「たが」に傍点]にひっかかっている。
水は、いたずらにムクムクとわき出るだけ、……丹下左膳も、柳生源三郎も、影も形もあらばこそ――。
人間《にんげん》の港《みなと》
一
「殿――」
伊吹大作の声だ。
桜田門外の、南町奉行大岡越前守の役宅は、奥の書院に、まだポーッと灯がにじんで……。
越前守様は、まだ起きていらっしゃるらしい。
黒塗り絵散らしの文机に向かわれて、燭台を引きよせ、何やら読書をしていらっしゃる。
書物をめくる、ひそやかな音。
毎夜のようなお調べものなんです。
「大作か。なんです」
下《しも》ぶくれの、柔和な越前守の笑顔が、次の間のふすまのほうへ、
「其方《そち》、まだ起きておったのか。かまわず先にやすめと申したに。ははははは、わしのつきあいはできぬであろう」
忠相《ただすけ》は笑うと、キチンとそろえた小肥《こぶと》りの膝が、こまかくゆれる。それにつれて、かたわらの燭台も微動する。灯がチラついて、小さな影が散る――。
ふすまの引き手の房《ふさ》が、ゆらりとゆれた。細目にあいた隙《すき》から、次の間の伊吹大作の顔が現われて、
「お精が出ますことで……申しあげます。ただいま、木戸にひっかかりましたとやらで、七、八つばかりの女の子が、重内、作三郎らに引ったてられてまいりましたが――」
忠相の眼は、いつも義眼のように無表情なのだ。何事があっても、けっして感情をあらわさない眼……そうであろう、この人間の港、大江戸の水先案内ともいうべき奉行職を勤めることは、かれ忠相、人間として修行することであった。行住坐臥《ぎょうじゅうざが》、すべてこれ道場である。そう自らを練ってきているうちに、かれの眼は、びいどろ細工のように、外の物は映しても、内のものは現わさなくなった。おそろしい眼だ。あの天一坊《てんいちぼう》も、この、またたきもしない眼に看破《みやぶ》られたのである。
いま、その眼をじっと大作にすえて、
「ナニ、女の子だと?」
「ハイ、それが、この夜ふけに一人歩いておりますので、不審を打ち、木戸へさしかかりましたところを、取り押えましたところが、奇怪にも、殿にお眼通りを願ってやまぬと申すことで、重内も作三郎も、ホトホトもてあまし、とにかく用人部屋まで連れてまいっておりますが」
「余に会いたい?」
「はあ、ただ、お奉行様にお目にかかるんだと申すだけで、あとは何をきいても、シクシク泣いております」
ちょっと考えていた忠相は、
「どんな娘じゃ」
「貧乏な町家の娘《こ》で――何やら大きな箱を背負っております。壺だとか申すことで」
「壺じゃと?」
あわてたことのない忠相の声に、ちょっとあわただしいものが走ったが、それは瞬間、すぐもとの、深夜の静海のような顔にかえって、
「なぜ早くそれを言わぬ」
「はア?」
「イヤ、なぜ早く壺のことを言わぬと申すのじゃ。庭へまわせ」
大作は意外な面持《おもも》ち、
「では、あの、御自身お会いになりますので?」
「庭へまわせというに」
くりかえした忠相《ただすけ》は、さがっていく大作の跫音を、背中に聞きながら、
「泰軒の使いじゃな」
と、つぶやいたまま、もうそのことは忘れたように、ふたたび、卓上の書物へ眼をおとしていると、
広縁のそとの庭先に、二、三人の跫音がからんで、
「殿、連れてまいりましたが――」
大作の声とともに、すすりあげる女の子の泣き声。
二
もう、死んだ気のお美夜ちゃんだった。
泰軒先生の言いつけだし、大好きなチョビ安兄ちゃんのためだとある――
この重い壺の箱をしょって、遠い桜田門とやらの、こわいお奉行様のお宅まで行くように……と言われたとき、お美夜ちゃんは恐ろしさにふるえあがってしまった。
ほんとに、どうしたらいいだろうと、作爺さんに相談してみたところが、そりゃあお前、どんなことをしても行かなくっちゃアならない。泰軒小父ちゃんと、チョビ安兄ちゃんのために――。
「泰軒小父ちゃんと、あのチョビ安兄ちゃんのためだもの」
後ろには、自分の背《せい》ほどもある、重い重い壺の箱をしょい、前には、これもやはり自分の背ほどもある小田原提灯をぶらさげたお美夜ちゃんが、深夜の町を、一人トボトボ歩きながら、たえず、呪文のように口の中にくりかえしたのは、この言葉だった。泰軒小父ちゃんと、チョビ安兄ちゃんのため……。
そうすると、小さなお美夜ちゃんに、ふしぎに、大きな力がわくのだった。
物心ついてから、竜泉寺《りゅうせんじ》のとんがり長屋しか知らないお美夜ちゃん。
桜田門なんて、まるで唐天竺《からてんじく》のような気がする。
何百里あるのかしら。
何千里あるのかしら。
江戸に、こんな静かなところがあろうとは、お美夜ちゃんは、今まで知らなかった。まるで死のような町。
白壁の塀が、とても長くつづいていたり、その中からのぞいている銀杏《いちょう》の樹を、お化けではないかと思ったり、按摩《あんま》師の笛が通ったり、夜泣きうどんと道連れになったり――。
人にきききき、やっとのことで桜田門という辺まで来てみると、まっ暗な中に大きなお屋敷がズラリと並んでいて、とほうにくれたお美夜ちゃんの前に、このとき、左右から六尺棒をつき出して、
「コラッ、小娘、どこへゆく」
と、誰何《すいか》したのが、越前守手付きの作三郎、重内の二人、不審訊問というやつだ。
お美夜ちゃんはわるびれない。
「あたいね、南のお奉行様のところへ行くんだけど、小父《おじ》ちゃん、お奉行様のお家《うち》知らない?」
「なんと御同役、お聞きなされたか。あきれたものではござらぬか。ヤイヤイ、小娘、ここが、そのお奉行様のお屋敷だが……」
「ナラ、どっちの小父ちゃんがお奉行様? この人? この人?」
「イヤ、これはどうも恐れいった。お奉行様が小倉の袴の股立ちをとって、六尺棒を斜《しゃ》にかまえて、夜風に吹かれて立ってるかッてンだ。相当|奇抜《きばつ》な娘だナ、こいつは」
取りつく島がなくなって、両手を眼に、メソメソ泣き出したお美夜ちゃんだった。
重内も作三郎も、弱りぬいたあげく、用人部屋へ引っぱってきて、伊吹大作にまでその旨《むね》を通じたというわけ。
この壺を取られてはならないと思うから、お美夜ちゃんはもう一生懸命、両手でしっかり箱をかかえて泣きながら、その泣く合間合間《あいまあいま》に、あちこち見まわしたり、ちょっとキョトンとしたり、それからまた、急に声をはりあげたりして、畳のかたい用人部屋に待たされていると、
「コレコレ、お奉行様がお会いになるという。果報《かほう》なやつだ。こっちへ来い」
大作、重内、作三郎の三人にとりかこまれたお美夜ちゃん、
「あたい、とうとう罪人になったの?」
お爺ちゃんにまた会えるかしら……などと情けない思い、飛び石につまずきつまずき、広いお庭の奥へ――
三
縁の高い書院《しょいん》造りの部屋が、眼の前にある。
その明るい障子が、静かに中からあいて、デップリした人影が現われたのを見たとき、庭の沓脱《くつぬ》ぎの下にすわっているお美夜ちゃんは小さなからだが、ガタガタふるえだした。
押しこみをおさえたり、人殺しをつかまえたり……お奉行さんなんてどんなにこわい小父ちゃんだろう!
が。
そのとたんに。
お美夜ちゃんの聞いた声は、ビックリするほどやさしい、親しみぶかいものであった。
「そちら三人は、さがっておるがよい」
お美夜ちゃんをとりまいていた大作、重内、作三郎の三人は、跫音もなく庭の闇へ消えこんでゆく。
意地のわるい三人のお武家さん――と思っていたものの、サテ、こうしてひとり取り残されて、お奉行様と相対《あいたい》になってみると、恐ろしさから、その三人が急に恋しくなって、
「小父ちゃんたち、行っちゃアいや、ここにいて!」
とお美夜ちゃん、泣き声をはなってあとを追おうとする。
しずかな含み笑いが、お広縁の上から。
「コレ、何もこわがることはない。この縁側へ腰をかけて、わしに、その壺というのを見せてくれぬか」
灯をしょった顔を振りあおいで見ると、眼尻に長いしわをきざんだ、柔和な笑顔……ほんとに、これが南のお奉行様かしら?
と、お美夜ちゃんはあやしみながら、
「あのね、あたいね、浅草のとんがり長屋から来たの」
と、一度安心すると、子供だけにもう人見しりをしないので。
壺をかかえて、越前守と並んで、縁側にこしかけたお美夜ちゃんに、障子をとおしてほのかな燭台の灯が踊る。
忠相はにこやかに、片手で壺の風呂敷をときながら、
「ウム、そのトンガリ長屋なら、おまえをここへ使いによこした人は蒲生泰軒《がもうたいけん》……泰軒小父ちゃんであろう」
「うん、よく知ってるね、この壺をお奉行様に、お渡しするようにって――」
「おお、よしよし」
忠相はお美夜ちゃんの頭をなでて、
「よくこの夜中に、ひとりでお使いにこられたな」
言いつつ、パラリと風呂敷をとき、桐箱の紐をほどき、箱の蓋《ふた》をとり、ソッと抜き出した壺から、スガリをはずして、もう、その手は壺の蓋にかかっている。
「おまえの名は、なんという」
「あたい、作《さく》お爺《じい》ちゃんとこのお美夜ちゃんっていうんですの」
壺の蓋をとった忠相は、そっと中をのぞいて見た。
部屋の洩れ灯なので、よくは見えない……。
なんだか底のほうに赤ちゃけた紙きれが入っているようでもあり、また、何もないようでもあり――。
いずれ、後で明るい部屋で、ユックリ見直すことにしようと、忠相はそのまま蓋をかぶせつつ、
「ウム、お美夜ちゃんか。かわいい名じゃのう」
「ええ、みんながそう言うわ」
「何をごほうびにやろうかの? 泰軒小父ちゃんのお使いをして、この小父ちゃんのところへ、こんなりっぱな壺を持ってきてくれたお礼に、何かすばらしいものをあげたいのじゃが……」
急に眼をかがやかしたお美夜ちゃん。
「ほんと? ほんとになんでもごほうびくれる?」
と、念をおしました。
四
忠相はうち笑って、
「念をおすには及ばないよ。嘘は泥棒のはじめという。世の中から、その泥棒をなくするのが、このおじちゃんの務《つと》めなのだ。わかるかな?」
お美夜ちゃんは、縁に足をブラブラさせながら、かわいい合点《こっくり》をする。
越前守はニコニコつづけて、
「そのお役目のこの小父ちゃんが嘘をいうはずはないではないか」
「そうねえ。なら、あたいの言うこと、なんでもしてくれる?」
「言うまでもない、なんでもきいてやろう」
「じゃ、お願いしてみようかしら」
「オオ、いかなることでも申してみるがよい」
「じゃアね」
と、お美夜ちゃん、仔細らしくちょっと考えて、
「あたいの仲よしにね、チョビ安さんって、とても元気な、おもしろい兄ちゃんがいるのよ。孤児《みなしご》なの」
言い
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