の不覚だった。
刀を帯しているのは、結城左京《ゆうきさきょう》ほか、二、三人だけ。
他の連中は、商人や百姓に扮《ふん》したまま、穴埋めに出て来たのだから、納屋にころがっていた鍬《くわ》や鋤《すき》をひっかついでいる……これでは、いまここへ現われた異様な人物に、対抗のしようがない。
物置小屋へひっかえして、両刀を取ってくる――一同の頭にひらめいたのは、このことだった。
合惣《がっそう》を肩までたらし、むしろのような素袷《すあわせ》に尻切れ草履《ぞうり》。貧乏徳利をぶらさげて、闇につっ立っている泰軒先生――……これを泰軒先生とは知らないから、司馬道場の連中は、めっぽう気が強い。
結城左京が一歩進み出て、
「われらは、火事に焼けた当家の者、あと片づけに来たまでのことです。どなたか存ぜぬが、何やら言いがかりをつけられるとは、近ごろもって迷惑至極――」
「夜中《やちゅう》をえらんで焼け跡の整理とは、聞こえぬ話だ。穴でも埋める仕事があるなら、わしも手つだってやろうかと思ってナ」
左京は、つと仲間をふり返って、
「こいつはおれが引きうけた。かまわぬから、すぐ埋めにかかれ」
「小父ちゃん、居候の小父ちゃん! 早くお父上を引き出しておくれよ。両手があってもはいあがれないのに、片手じゃアどうすることもできねえだろう。もう死んだかもしれないねえ、小父ちゃん」
穴のまわりに立ちさわぐチョビ安をめがけて、鋤や鍬が殺到した。
「えいッ、小僧、そこのけッ!」
その一人の横顔へ、やにわに振りまわした泰軒先生の一升徳利が、グワン! と当たって、
「オッ! なんだか知らぬが、ばかにかたい、大きな拳固だぞ」
打たれたやつは、頭をかかえてよろめきながら、感心している。
泰軒先生に斬りつけて、みごとにかわされた結城左京《ゆうきさきょう》は、さすがに十方不知火《じっぽうしらぬい》流の使い手、瞬間に、これは容易ならぬ相手と見破りました。
「ヤ! おれ一人では手におえぬ。おのおの方、刀を! 刀を!――」
一同は鋤や鍬をそこへ投げすてて、もと来た森かげの物置小屋へ、一散走りに引っ返してゆく。
みなが来るまで、なんとかしてこの場をつなごうと、左京が泰軒へ白刃をつきつけて、静かな構えにはいろうとしたとき!
嵐のような多人数の跫音《あしおと》が、地をとどろかしてこっちへ飛んでくる。
驚いたのは、左京だけではなかった。泰軒もチョビ安も、闇をすかして振りかえると、
「先生ッ、先生イッ!」
ガラッ熊の声だ。
「トンガリ長屋が、総出で助太刀にめえりやした」
おどりあがったチョビ安、
「ヤア、石金の小父ちゃんだ! 鳶由《とびよし》の兄《あん》ちゃんだ! ああ、長屋の細野先生もいる」
「いかがなされました、泰軒先生」
「イヤ、これはおれが引きうけたから、早くその穴を掘りかえして――」
泰軒先生、さっき左京の言ったのと、同じ言葉をくりかえす。それをチョビ安が、いそいで説明して、
「オウイ、長屋の衆、この穴の中に、あっしのお父上が埋ずまっているんだよ。そこらに、鍬や鋤がほうってあるだろう。オウ、みんな手を貸してくんな!」
十四
それは、世にもふしぎな光景だった。
浅草《あさくさ》竜泉寺《りゅうせんじ》の横町からかけつけた、トンガリ長屋の住民ども、破れ半纏《はんてん》のお爺さんやら、まっ裸の上に火消しの刺子《さしこ》をはおった、いなせな若い者や、ねんねこ半纏で赤ん坊をしょったおかみさん、よれよれ寝間着の裾をはしょったお婆さん――まるで米騒動だ。てんでに、そこらに散らばっていた鍬《くわ》や鋤《すき》をひろいあげて、一気に穽《あな》を掘りひろげはじめた。
「この下に、あたいのお父上が埋まっているんだよ。早く、早く!」
と、チョビ安は、穴のまわりをおどりあがって、狂いさけぶ。
チョビ安の父?
と聞いて、長屋の人達は、びっくりした。
以前チョビ安は、このこけ猿騒動にまきこまれる前までは、やはり、とんがり長屋に巣を食って、夏は心太《ところてん》、冬は甘酒《あまざけ》の呼び売りをしていたのだから、その身の上は、長屋の連中がみんな知っている――。
あたいの父《ちゃん》はどこへ行った……あの唄も、みなの耳に胝《たこ》ができるほど、朝晩聞かされたもので、このチョビ安には、父も母もないはず。
遠い伊賀の国の出生とだけで、そのわからぬ父母をたずねて、こうして江戸へ出て、幼い身空で苦労していると聞いたチョビ安。
その、チョビ安の父親《てておや》が、この穴の下に埋められているというんだから、とんがり長屋の人々は、驚きのつぎに、ワアーッと歓声をあげました。
「オイ、安公の親父《おやじ》が見つかったんだとよ」
「ソレッ! チョビ安のおやじを助けろッ!」
貧しい人たちほど、涙ぐましいくらい、同情心が深いものです。
人の身の上が、ただちに自分の身の上なのだ。トンガリ長屋の連中は、もう一生懸命。男も女も、全身の力を腕へこめて穴を掘ってゆく。
ふだんはめっぽう喧嘩っぱやい、とんがり長屋の住人だが、この美しい人情の発露には、チョビ安も泣かされてしまいました。
「ありがてえなア。おいらの恩人は、この長屋の人たちだ。いつか恩げえしをしてえものだなあ……――」
うれし涙をはらって、チョビ安、ひとり言。
穴の周囲は、戦場のようなさわぎです。糊屋《のりや》のお婆さんまで、棒きれをひろってきて、土をほじくっている。これは助けになるよりも、じゃまになるようだが……――うしろのほうで突然、トンツク、トンツクと団扇太鼓《うちわだいこ》が鳴りだしたのは、法華宗《ほっけっしゅう》にこって、かたときもそれを手ばなさないお煎餅屋《せんべいや》のおかみさんが、ここへもそれを持ってきて、やにわにたたきはじめたのだ。士気を鼓舞すべく……また、南無妙法蓮華経《なむみょうほうれんげきょう》の法力を借りて、この穴埋めの御難を乗りきるべく――。
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とんつく、とんつく!
とんとん、つくつく……!
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イヤ、お会式《えしき》のようなにぎやかさ。
指揮をしているのは、例の石金のおやじと、南部御浪人《なんぶごろうにん》細野先生だ。
ガラッ熊、鳶由《とびよし》、左官《さかん》の伝次――この三人の働きが、いちばんめざましい。鍬をふるい、つるはしを振りかぶり、鋤を打ちこんで、穴は、見るまに大きく掘りさげられてゆく。
一同泥だらけになって、必死のたたかいだ。おんな子供は、その掘りだした石や土を、そばから横へはこんでゆく――深夜の土木工事。
泰軒先生は?
と見ると、やってる、やってる!
むこうで、結城左京《ゆうきさきょう》をはじめ、刀を取って引っかえしてきた不知火流の七、八人を相手に、
「李白《りはく》一斗《いっと》詩《し》百篇《ひゃっぺん》――か。ううい!」
酒臭い息をはきながら、たちまわりのまっ最中。
十五
「李白一斗詩百篇、自《みずか》ら称《しょう》す臣《しん》はこれ酒中《しゅちゅう》の仙《せん》」
泰軒先生、おちつきはらったものです。
思い出したように、この、杜甫《とほ》の酒中八仙歌の一節を、朗々吟じながら――。
棟の焼けおちた大きな丸太を、ブンブン振りまわして、だれもそばへよれない。
のんだくれで、のんき者で、しようのない泰軒先生、実は、自源流《じげんりゅう》の奥義《おうぎ》をきわめた、こうした武芸者の一面もあるんです。
トンガリ長屋の人たちは、この泰軒先生のかくし芸を眼《ま》のあたりに見て、ちょっと穴を掘る手を休め、
「丸太のような腕に、丸太ン棒を振りまわされちゃア、近よれねえのもむりはねえ」
「ざまアみやがれ、侍ども!」
「オウ、感心してねえで、穴掘りをいそいだ、いそいだ」
不知火《しらぬい》の連中は、気が気ではない。泰軒一人でも持てあましぎみだったところへ、文字どおり百鬼夜行の姿をした長屋の一団が、まるで闇からわいたようにとびだしてきて、見る間に穴を掘りだしたのだから、結城左京らのあわてようッたらありません。
それはそうでしょう。
この穴を掘りさげていけば、柳生源三郎と、丹下左膳がとび出す。
猫を紙袋《かんぶくろ》におしこんで、押入れにほうりこんであるからこそ、鼠どもも、外でちっとは大きな顔ができるようなものの……。
その鋭い爪をもった猫が、しかも二匹、いまにも袋をやぶり、押入れからとび出すかもしれないのだ。
それも、死骸であってくれれば、なんのことはないが――。
水におぼれて、もう死んでいるには相違ないけれど……伊賀の暴れん坊と不死身の左膳のことだ、ことによると……。
ことによると。
まだ生きているかもしれない――。
「こいつひとりにかまってはおられぬ」
と左京は大声に、
「早く! 早く穴のほうへまわって、あの下民《げみん》どもを追っぱらってしまえ」
声に応じて、刀をふりかざした二、三人が、穴のまわりに働く長屋の連中のなかへ斬りこもうとするのだが――。
ドッコイ!
泰軒先生の丸太ン棒が、行く手ゆく手にじゃまをして、どうしても穴のそばへ行くことができない。
「筑紫の不知火も、さまで光らぬものじゃのう」
泰軒先生の哄笑が、長く尾をひいて闇に消えたとき!
必死に穴を掘っていた群れに、突如、大声が起こって、
「ヤア! 水だ、水だ!」
「水脈《すいみゃく》を掘りあてたぞ!」
それじゃアまるで井戸掘りだ……しかし、冗談ではない。しばらく掘りひろげた穴から、コンコンと水が盛れあがってくるではないか。
「こりゃいけねえ。この穴は、きっと三方子川《さんぼうしがわ》の川底につながっているに相違ねえ」
もう、鍬《くわ》や鋤《すき》ではどうすることもできない。
一同は思案にくれてしまった。
水は、さながら噴水のようにわきあがってくる。
「お父上! お父上! 水の力で浮きあがってこられないの? お父上!」
チョビ安はもう半狂乱。
「オウ、野郎ども! 三尺をとけ。下帯も――」
なかば水音に消されながら、石金さんの胴間声《どうまごえ》がひびいた。
十六
穴の中から水がわき出たと聞いて、きもをつぶしたのは、結城左京の一派です。もういけない……! これ以上ここにまごまごしていたら、自分たちの身があやうい。
「だめだッ! 引きあげよう」
ナニ、引きあげるんじゃアない。逃げるんだ。
「もうこうなったら、先へ行った峰丹波殿《みねたんばどの》の一行に追いついて、助勢を借りるよりほかみちはない」
ささやきかわして不知火のやつらは、サッと刀を引くが早いか、一目散に闇の奥へ消え去った。源三郎と左膳が、生きているか死んでいるか、それを見きわめるひまもなく。
泰軒先生は、丸太を投げすてて穴のふちへとんできながら、
「ナニ、水がわいたと」
「ハイ、このとおりです」
なるほど、夜目にはハッキリと見えないが、泥をとかした真ッ赤な濁水が、まるで坊主頭《ぼうずあたま》がかさなるように、ムクムクわきあがってきて、穴は、もういっぱいの水。
アレヨアレヨと言うまにあふれあふれて、まわりに立つ人々の足を没せんばかりの勢い……。
「ふしぎなこともあるものだ。これでチョビ安の父親《てておや》も、もはや命はあるめえ」
「居候の小父ちゃん、なんとかしてお父上を助けてよ。あたい、この水の中にもぐろうか」
「馬鹿言え。下から噴き上げる水へもぐっていくのは、よほど泳ぎの達者な者でも、むずかしいとされている」
言いながら、泰軒先生が見まわすと。
例の指揮者の石金です。帯をといているんだ。
帯といっても三尺……そのよれよれの三尺をといた石金、大声をはりあげて、
「ヤイ、みんな、帯をとけ」
長屋の連中のことだから、算盤《そろばん》絞りかなにかの白木綿の三尺――一同それをといて、つなぎ合わせてみたところで、長さはしれている。
「これじゃアしょうがねえ。下帯をときな」
江戸っ子がそろっているから、いくら貧
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