ンガリ長屋のあぶなっかしいどぶ板を踏んではいって行ったのは……。
 お忍びらしい覆面、無紋の着流しに恰幅《かっぷく》のいいからだをつつんだ武士だ。いかにも、大身らしいようす。
 路地の入口に残された伊吹大作――南町奉行大岡越前守手付き……が、きっとあたりに気を配りながら、そっと上眼《うわめ》づかいに、その後ろ姿を見送っているところから見ると、この覆面の侍は、よほど大作の上役……ないしは主筋に当たる人らしい。
 軒なみに、長屋の一軒一軒をのぞきながら、進んでゆくその無紋着流しの侍は、やがて、路地の中ほど、作爺さんの家の前まで来ると、そっと忍びやかに格子をあけて、
「お美夜という女の子は、いるかの」
 ちょうどあがり框《がまち》に膝ッ小僧をかかえていたチョビ安が、
「お美夜ちゃんは、日光へ行っていねえや。おめえは誰だい。人の家にへえって来るなら、かぶりものを取んなよ」
 覆面の侍は、そう言うチョビ安を無視して、
「なに、日光へ行ったと? それは弱ったな、約束があって来たのじゃが」
 その声を聞きつけた泰軒、大の字なりに寝そべっていたのが、おきあがって、土間へ首をのばし、
「おお! 貴公は、南町の……」
「シッ! 泰軒坊主ではないか。イヤ、おぬしがここにおることは、あのお美夜と申す女の子が、おぬしの命令《いいつけ》でかの壺を、拙者のもとへ届けに来てくれたとき、聞いたのじゃが、まだこの家に居候とは知らなかった。どうした、相変わらず飲《や》っておるな。ところで、あの壺は偽《にせ》のこけ[#「こけ」に傍点]猿《ざる》…にせ猿じゃったよ」
 と、唖然《あぜん》としている泰軒先生とチョビ安を前に、その小ぶとりの武士《さむらい》は、土間に立ったままつづけて、
「イヤ、それとこれとは、別な話じゃが、そのとき、あのお美夜に、なんぞ褒美《ほうび》を取らしょうかとわしがたずねたところが――」
「うむ、その話は、この泰軒も聞いたぞ。お美夜坊は、何も褒美はいらぬが、家にいるチョビ安という者の親が知れるよう、お奉行の――イヤなに、貴公の手で、その親を探してもらいたいと頼んだという……ここにおるのが、すなわちそのチョビ安様じゃ」
 と泰軒居士は、ポカンと口をあけているチョビ安の頭を、しきりになでる。容易ならぬ客らしいと、子供心にも何か感じたチョビ安はあわてて、あぐらの足をキチンとすわりなおした。
「おお、これか、チョビ安と申すは」
 と覆面の士《さむらい》は、泰軒へ、
「いや、わしとは思わず、ただある筋から、使いの者が来たと思って、応対してくれい」
 覆面のなかの柔和な眼が、静かにほほえんで、
「おぬしも知っておるであろう。あの愚楽老人ナ、彼は、全国に散らばるお庭番の元締めじゃから、ふと思いついて、愚楽老人にこのチョビ安なる者の親の探索を頼んだのじゃ。伊賀の者だということのみを頼りにナ――すると、それが知れたのじゃ」
「えっ! あ、あの、あたいの父《ちゃん》や母《おふくろ》が――?」
「おお、知れたぞ。今日知れた。で、お美夜への約束を果たそうと、さっそくわしが自分で……イヤ、こうして使いの者をよこしたわけじゃが、これ、チョビ安とやら、そちの父は、いま日光におるぞ、そちも日光へゆくか、どうじゃ。このたびの日光御造営の竣工式に、吉例により紫の衣紋《えもん》をつけて現われる人こそ、そちの父なのじゃ――」

       四

「ねえ、泰軒小父ちゃん、すぐ発足しようじゃアねえか。あたいの父《ちゃん》が知れたんだい! べらぼうめ! 朝までなんか待っていられるかい」
 とチョビ安は、涙のいっぱいたまった眼で、えらい鼻息。
「あたいの父《ちゃん》はね、こんどの日光の式に、紫の着物を着て出る人なんだって。その式にまに合わねえと、たいへんだ。おじちゃん、連れていっておくれよウ。日光には、お美夜ちゃんも作爺ちゃんも、みんないるんじゃアねえか」
 はしゃぎきったチョビ安は、
「コウ、泰軒坊主め、すぐ出かけようぜ」
 と、調子にのってどなるさわぎ。
 使者だと言った覆面の侍が、静かに泰軒に目礼を残して、帰っていったあとである。
 この、顔をかがやかし、眼に涙を浮かべて、いさみたっているチョビ安を見ては、泰軒先生も神輿《みこし》をあげざるをえない。
「ウム、さもありなん。それでこそ親子の情じゃ」
「なに言ってやんでえ! 何がアリナンでえ。サア、早く早く!」
 とせきたてられて、泰軒先生、急にこの真夜中に、チョビ安|兄哥《あにい》の手を引いて、はるばる日光へ出発することになったのである。
 したく?
 冗談じゃアない。二人ともお尻をからげて、冷飯《ひやめし》ぞうりを引っかければ、もうそれでりっぱな旅のしたく。
 型ばかり雨戸をしめて、路地へたちいでた泰軒居士、長屋じゅうへひびきわたるような大声をはりあげ、
「皆の衆! しばらくのお別れじゃ。泰軒とチョビ安は、これよりちょっと日光へ行ってまいる。安の父親というのが知れてな」
 という声に、長屋じゅうから親爺やおかみさんや、兄イや姉ちゃん連が、ゾロゾロたち現われて、口々に、
「マア安さん、おめでとう。父《ちゃん》のいどころが知れたんだって?」
「安|兄哥《あにい》、こんなうれしいことはねえだろう。おめえの父《ちゃん》は、どこのなんてえ者だ」
 チョビ安の親探しは、近処《きんじょ》かいわい、誰知らぬ者もない。今その親が判明して、泰軒先生に連れられて、これから旅に出るというのだから、長屋の連中は自分のことのように喜んで、美しい人情の発露、イヤ、もう、たいへんなさわぎです。竜泉寺の角まで送ってきて、そこで泰軒とチョビ安は、一同につきぬ名残りを惜しみ、日光をさして闇の街へ、大小二つの影法師が消えていったが。
 すると、その真夜中過ぎのこと。
 長屋の口きき役ともいうべき石屋の金さん方の表戸を、ドンドンたたく者がある。
 寝ぼけまなこをこすった金さんが、出てみると……。
 隻眼隻腕の白衣《びゃくえ》の浪人、うしろに御殿女中くずれのような風俗《なり》の女が、一人つきそって、浪人が、木枯しのような声できくには、
「この長屋に、以前チョビ安という者がおったはずじゃが」
「ヘエ、安公なら、今夜宵の口に、なんでも父親が見つかったとかで、日光をさして旅に出やした、ヘエ」
「ナニ、日光へ?」
 と聞いた丹下左膳、お藤を連れて、これもそのままチョビ安のあとを追い、すぐその足で日光へ向かうことになったが……。
 と、それから数刻ののち、左膳のあとをたずねて、このトンガリ長屋へ来た柳生源三郎、その御浪人ならちょっとここへ寄って、ただちに日光へ出むいたという石金《いしきん》の言葉に、彼源三郎も、その場からただちに、日光へ、日光へ。

       五

 ほのぼの明けに江戸を出はずれた、蒲生泰軒とチョビ安の二人。
 すこし遅れて、丹下左膳櫛巻お藤。
 お藤はもう、どこかで懐中のお鳥目をはらって、旅のしたくをととのえたとみえ、椎茸髱《しいたけたぼ》もぎっとつッくずして、柄《がら》に合った世話な櫛巻。お端折《はしお》りをした襟つきの合羽姿が、道行く人を振りかえらせるほどの仇《あだ》な年増《としま》ッぷりでした。
 遅れてトンガリ長屋へたどりつき、やはり石屋の金さんから、丹下左膳らしい浪人者が、さっき長屋へたずねてきたが、人を追ってすぐ日光へ出かけたと聞いた伊賀の暴れん坊、気の早いほうでは、人後に落ちません。司馬道場から引き連れて来た弟子三名を従えて、これも道々この店で脚絆、わらじ、あの店で笠《かさ》に柄袋《つかふくろ》といったように、旅の装束をととのえつつ、紫いろのあけぼのの江戸をあとに……。
 江戸から二里で千住《せんじゅ》、また二里で草加《そうか》、同じく二里の丁場《ちょうば》で、越ケ谷、粕壁《かすかべ》――。
 日光街道に、三組のふしぎな旅人が、それぞれ先を望んで点々として追うがごとく。
 ところで、ここに。
 つぎの動きは、まずあの、大人とも子供とも得体の知れないチョビ安を中心に、まき起こるに相違ないとにらんで、この間じゅうからずっと、あのトンガリ長屋の付近へ張りこみ、それとなくようすをうかがっていた男がある。
 ほかでもない、つづみの与吉。
 こやつ、いつ江戸へまい戻ったものか、若党|儀作《ぎさく》の壺のあとを追って、せっかくうばったのを、また取り返されたという失敗にもこりず、頭をかきかき、またあの司馬道場の峰丹波へ、うまくとりいったのだろう。
「ヘエ、こんどこそはあっしが、あのチョビ安ってエ大人小僧をつけねらって、ナアニ、きっとこけ猿の茶壺を手に入れてお目にかけやす。ヘッ、お茶の子さいさい」
 例によって安請合い、おおいに丹波の前にいい顔をしておいて、それからずっとこのトンガリ長屋を夜となく昼となく、見張りはじめたというわけ。
 与吉のやつは、チョビ安に、忘れられない恨みがあるんです。
 そもそもこの事件の当初。
 うまく品川の宿舎《やど》から、こけ猿の壺を盗み出したのに、途中でそれをうばって逃げ出したのが、あのチョビ安。あれがこの紛糾のもととなったのですから、チョビ安に対する与吉のうらみたるや、山よりも高く、海よりも深い。
「こんどこそはあの小僧のやつを、とっちめてやるぞ」
 と、昼夜兼行で、ねらっていると。
 すると、今夜のこと。
 誰かわからぬが、偉そうな覆面の侍が、この長屋をおとずれたと思うまもなく、チョビ安と泰軒が、連れだって旅へ出たようす。見送りの長屋の連中のうしろに立って、それとなく聞いたところでは。
 日光へ……という。
 ハテナ? と思うひまもなく、こんどはたえてひさしい左膳とお藤が姿を見せて、これも、日光へ――。
 かと思うと三人目には、伊賀の暴れん坊までが日光をさして、江戸を離れようとする。
 トンガリ長屋の付近にひそんで、そこまで見とどけた与吉。
「ワアッ! てえへんでえ、てえへんでえ! 馬鹿に今夜は日光ゆきのはやる晩だ。こりゃあこうしちゃあいられねエ」
 とばかり、東の白みかけた街を足を宙に、妻恋坂の道場へかけもどり、まだ丹波が寝ている部屋の外まではいりこんだ与の公、
「チョッ、殿様、峰の旦那! 寝ている場合じゃアござんせんぜ」

       六

 与吉から、委細の話を聞いた峰丹波は、
「ウム! これは、日光の方角に、何やら容易ならぬことが行なわれんとしておるに相違ないテ。ことによると、あの方面にこけ猿の茶壺があるとでもいうような、有力な聞きこみがはいって、それでこうして三組の者どもが、あわてふためいて日光へ向かったのであろう」
 じっと何事か沈思《ちんし》におちていた丹波、ハタと膝を打って、ニヤリとした。
「与吉、日光を見ざるうちは、結構と言うなかれじゃ。そちも見物にまいるか」
「ヘエ、ぜひお供いたしてえもので」
 そこで丹波、どういう策略があるのか、あわただしく、起きぬけの萩乃に目通りを願い出て、
「サテお嬢様、今日《こんにち》まで私は、意地ずくから、心ならずも源三郎さまにお敵対申しあげ、あなた様にも由《よし》ないお苦しみをおかけ申してまいったが、御存じのとおりお蓮の方は、逐電あそばされるし、拙者もつくづく考えるところござって、このたび転向……」
 転向? そんなことは言わない。
「このたび源三郎様におわびを申し入れましたところ、さすがは理のわかったお方、今までの非礼をことごとくおゆるしくだされましたのみならず――」
 うまく萩乃を言いくるめたものです。
 何事か思いたって、源三郎はゆうべのうちに、急に日光へ向かって発足した。ついては、丹波に萩乃を守って、あとから追いつくようにという伝言《ことづて》だったと、もっともらしい口構《くちがま》え。
 兄対馬守は造営奉行として、目下|登晃《とこう》中なのだから源三郎が所要あって、そっちへ出むくことは、不自然ではない。
 なるほど、源様は、ゆうべ三人を連れていつのまにか、屋敷を抜け出ている。
 自分の幼い時分から、この不知火《しらぬい》の道場にいて、父十方斎の信任あつかった
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