しまおうとするなんて!」
と櫛巻の姐御、姐御の本領を発揮して、いきなり、縫い取りの美しいうちかけをぬぎすてるが早いか、パッと地面へ投げすてた。
「よし! あたしも櫛巻と言われた女だ。こうなりゃあ意地ずく! どこまでだってついていってやるから!」
と、長い裾をグイとはしょると、夜目にも白い脛《はぎ》がくっきりと。
見ると、左膳はもう四、五間さきを、何事もなかったように歩いてゆく。
「オット! いけない、子供たちを忘れちゃあ……」
つぶやいたお藤姐御は、駕籠へ引っかえし、中へ手を入れてごそごそやっていたが、取りだしたのは角ばった風呂敷包み。折り畳の三味線と、塗り箱に入った尺取虫と――商売もの。
これだけは一刻《いっとき》も、そばを離さず、こうして外出《そとで》にも、駕籠へ入れて持ち歩いているものとみえる。
かたむきかけた月を踏んで、ブラリと歩いてゆく左膳のうしろから、裾をからげたお藤姐御が、二、三間おくれてシトシトとついてゆく。
妙な道行き――。
「腰元づとめなど、あたしゃもう、ふつふついやになって、今日は逃げ出そうか、明日は……と思っていたやさき、いいところでお前さんに会ったわ」
先をゆく左膳、振りかえりもせずに、
「その姿はどうしたというのだ」
「なんて、きくところをみると、それでもすこしは気になるとみえるね。ウフッ、東海道を与吉といっしょに、流しているうちに、柳生の殿様につかまって、おもしろい女というんで、おそばに仕えることになったんだが、今その殿様は、日光御造営のお奉行になって、日光《あっち》へ行ってしまうし、あたしゃ百いくつとかのお化けのようなお爺さんの世話をしながら、しんき臭い日を送っていたのさ。ほんとうに、またお前さんに会えようなどとは、夢にも思わなかったよ」
四
この櫛巻姐御をひと眼見て、これは何か使える、見どころがある……と、腰元として江戸まで連れて来、上屋敷に置くことになった柳生対馬守は。
どういう考えだったのでしょう。
その後、なんのこともなく、ただそば近く使っておいただけ。こんど日光へゆくに当たって、お藤をあの一風宗匠づきとして、林念寺前の屋敷内の茶席に残してゆくことになったのですが……。
さて今、お藤は、左膳のうしろから、ノコノコついてゆきながら、
「それで、あたしの仕事というのは、その一風というお爺さんの寝起きの面倒を見ることと、毎晩夜中に、こうしてお駕籠で上野の権現様へおまいりして、はるか江戸から、このたびの日光御造営がつつがなく終わるように祈念《きねん》を凝《こ》らすだけがわたしの務めさ」
先に立ってゆく左膳の肩が、こまかく動いたのは、かれ、噴《ふ》きだしたのらしい。
「プフッ! おまえに祈られちゃア、うまくゆく日光も、ぐれはま[#「ぐれはま」に傍点]になるだろうテ」
「おふざけでないよ。あたしだって、こんな馬鹿げたことはしたかアないけれどサ、その一風っていう爺さんの御代参に、こうして毎晩、権現様へ参詣させられるんだもの。ところがね、ふしぎなこともあるものでネ」
とお藤姐御が、笑いながら話したところによると。
濃艶な櫛巻お藤が、朝夕宗匠の世話をやくようになってから、一風さん、とても若返って、別人のようになったというから妙だ。
と言っても、相手は百二十何歳という、伝奇的な御老人のことですから、むろん、二人のあいだにはなんということもないのですが、いったいお藤のような毒婦型の美女からは、その身辺に、一種の精気といったようなものが発散されるものとみえる。毎日それを呼吸しているうちに、枯れ木にまちがって花が咲くように、一風宗匠の生命の灯が、新しい油を得てトロリとわずかに燃えあがったのでしょう。
ホルモンなどということを、近ごろやかましく言いますが、この享保《きょうほう》の昔に対馬守は、そこらの理屈を知っていたのかもしれない。こけ猿の壺が見つかり、その真偽に判定をくだすためには、もうすこし一風宗匠に生きていてもらわなければならないのだが。
その肝腎の一風宗匠は、伊賀から江戸までの旅にすっかり弱りはてて、今日明日にも眼をつぶろうというとき、偶然にも一行へとびこんできたのが、このお藤。
その妖艶な年増ぶりを見たとき、対馬守は、これは一風宗匠の若返りの道具に使える……と思ったに相違ありません。
「まるで赤ん坊みたいだったお爺さんが、このごろじゃアお前さん、りっぱに一人で部屋じゅう歩きまわるし、耳もちゃんと聞こえるようになったしね」
「これからまた育って、その百何年をもう一度繰りかえすのだろう。ついていてやりゃあいいじゃアねえか。功徳《くどく》にならア、いずれそのうち、丹下左膳てえ者がこけ[#「こけ」に傍点]猿《ざる》の壺を持って、鑑定をお願いに出ますと言っておけ」
「いやなこった! ここでお前さんを見つけた以上、あたしゃもうもう、どんなことがあっても離れやしないよ。柳生の屋敷へなど、二度と帰りはしないから」
左膳は無言。
ついてくるならかってに――と言わぬばかり、どんどん歩を早めて、浅草竜泉寺の方角へ。
お藤姐御も、おくれじと急ぐ。変てこな二人行列。
生命《いのち》の辻《つじ》
一
女のほうからおもわれると、その女に対して、たいした興味を持たなくなる……これが、色事師の常らしい。柳生源三郎も、その一人。
お屋敷育ちの武家娘らしい、つつましやかさで、萩乃が自分を恋していることは、百も承知しているのだが。
サテ、そうなってみると、萩乃とほんとうに千代をちぎり、この道場のあるじとなり、永久にここに根をはやそうというほどの、執着心もわかない。
ことに、それにはまだひとつじゃまがある。
それは……峰丹波の存在。
御後室お蓮様は、ある夜ひそかに道場を出奔して、行方不明になったものの、丹波はいまだに、その邸内の別|棟《むね》に頑張って、いっかな動きそうにない。
ああして真剣仕合いをいどめば、判定人を立ちあわせろというので、あの田丸主水正を兄対馬守に仕立て、ひと思いに丹波を斬ってしまおうとしたところが、あのとおりに狂言がばれて、丹波の首は一日のばしに、まだつながっているというわけ。
萩乃とは、ひとつ屋根の下に起き臥ししているというだけで、今もこの深夜に、萩乃は、長い廊下の奥の自分の部屋に、ただ一人、どんな夢を見てか――。
枕行燈に羽織を引っかけ、こっちへ向いたほうだけ燈芯《とうしん》の灯をむきだしにして、床にはらんばいになったまま、何やら書見をしていた源三郎は、廊下をこきざみに摺《す》ってくる跫音《あしおと》に、上半身を起こし、
「なんだ」
同時に、襖があいて、二、三人の興奮した若侍の顔が、すき間に重なり合い、
「林念寺前のお上屋敷の者どもが、一風宗匠の代参の婦中《じょちゅう》を駕籠に乗せまして、上野よりの帰途、三枚橋において白衣の狼藉者に出あい、ただいま加勢を求めてかけつけてまいりましたが……」
白衣の狼藉者? と、聞くと、源三郎の頭に、ピンとくるひとつの映像がある。
「ハテナ、彼奴《きゃつ》ではあるまいか」
ひとりごちた源三郎は、何か心中に、ふと思いついたことがあるらしく、
「今からかけつけたのでは、まにあわんであろうが――誰がまいったのだ」
「高大之進手付きの尚兵館の者ども二名」
「よし、二、三人ついてこい」
ニヤリと笑った源三郎が、手早く寝間着をぬぎにかかると、つぎの間からようすをうかがっていた小姓が、すぐ外出のしたくをととのえてささげる。
身じたくを終わった伊賀の暴れん坊多勢をさわがすほどのことでもないとそっと縁から庭づたいに、大刀を引っさげて裏口へまわってみると、なるほど、顔に見おぼえのある上屋敷の者が二人、ハアハア息を切らして立っている。
「片腕ではないかナ、その曲者《くせもの》は」
「ハッ、たしかに左手だけのようで……イヤもう恐ろしい使い手、またたくうちに二人ほど――」
ひさしぶりに、丹下左膳に相違ない。そう思うと、源三郎の若い血管は、友情と、剣技の敵としてのなつかしさとの、ふしぎな感情が交流するのを感じて、かれは、だまって小走りに急ぎはじめた。わしづかみにしてきた黒|頭巾《ずきん》で、クルクルと顔をつつみながら。
源三郎の臣三人ほど加えて一行六人、シトシトと深夜の土を踏む。
「左膳のやつ、まだウロウロしていてくれればよいが」
源三郎は、旧友に会おうとする心のときめきで、いっぱいだった。
二
「オオ、ここだここだ!」
一人が叫んで、三枚橋を黒門町のほうへすこし行った路傍に、まぐろのように横たわっている死骸へ、提灯の灯をつきつけて、
「ヤ! こいつはだめだ! 殿ッ、これはすっかり息の根が絶えております」
「もう一人斬られたはずですが……」
駕籠について来た上屋敷の侍がひとりごとのように言いながら、闇の足もとを見まわすと――。
近くに、断末魔のうめき声……まるで地の底からゆすれあがってくるような。
耳ざとく聞きつけた源三郎が、その声を頼りに探ってゆくと、左側の家のしめきった大戸によりかかって、一人の侍が、血の池の中に大あぐらをかいたまま、
「駕籠は……駕籠は――」
口ばしっている。
「駕籠はここにあるぞ。しっかりせい!」
と肩に手をかけて、源三郎がのぞきこむと、
「ウム、駕籠はここにあるが、乗っておったお藤どのは、あの浪人者のあとを追って――」
「サ、その浪人者だが、どっちの方角へまいった?」
「は……ア、アノ、この山下を車坂のほうへ、ソ、それから、なんでも二人の話では――」
「二人の話? すると、一風宗匠代参の腰元と、その狼藉者とは、知りあいとみえるな。シテ、ふたりの話では――どこへゆくと申しておった?」
「ナ、なんでも、浅草竜泉寺の――?」
「コラッ! 気をたしかに持てッ! その浅草竜泉寺の――?」
「ハッ、拙者は、もうこれにて……竜泉寺のとんがり長屋とかへ――闇中《やみ》に、そういう話し声が聞こえました」
人ふたり斬り殺された真夜中のさわぎ。両側の家々では、細目に板戸をあけて、おっかなびっくりのぞいているし、番太戸《ばんたど》の注進で、町役人たちもおいおいと出て来るようす。
かかり合いになって、この場をはずせなくなってはたまらないと、源三郎は二人の死傷者の始末に、上屋敷の者をその場へ残し、サッと風のように浅草の方角をさしてかけだしました。
その、おなじみの浅草竜泉寺のトンガリ長屋。
作爺さんの家では……。
名を秘め、世を忍んで、お美夜ちゃんとたった二人、ながらくただの作爺さんで日を送ってきた作阿弥が、柳生対馬守によって日光御造営へ召し出されたあと。
すぐそのあとを追って、お美夜ちゃんが母親のお蓮様とともに、これも日光へ発足《ほっそく》してしまう。
あとには――。
大小二人の変物が、妙《みょう》ちきりんな生活をこの家に送っている……蒲生泰軒とチョビ安|兄哥《あにい》と。
味気《あじき》ない思いのチョビ安です。顔を見たこともない父母が、恋しいばっかりに、あの「むこうの辻のお地蔵さん」の唄をうたって、親を探しに江戸へ出てきたのですが。
伊賀の柳生の者とだけ、いまだにその親にはめぐり会えず、かりに父ときめた丹下左膳とも離ればなれになり、親がわりのように世話をしてくれた作爺さんは、日光へ取られる。
子供心にも、恋人気どりのお美夜ちゃんには、ひと足さきに母親が名乗りでて、しかも、二人いっしょにこれも日光へ。
残った泰軒先生は、ガブガブ酒を飲みながら、毎日幾件となく持ちこんでくる、江戸じゅうの巷の人事相談に応じているばかり。チョビ安の「親をたずねる人事相談」にだけは、このさすがの泰軒先生も、手も足も出ない形。
ところが、今宵、めずらしくこの家に客があるのです。
しきりに、しんみりとした話し声。
三
まだ宵の口を、ちょっとまわったばかりのころ。
「では、大作、そのほうはここで待っておれ」
そう言いすてて、このト
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