の御霊《みたま》を安んぜしめるために、人柱をささげるということは、ほかにも聞いたおぼえがある。
 すると、ちょうど今夜のように。
 黒暗々の夜空をつらぬく一|閃《せん》の稲妻のごとく、このときお蓮様の心に、すべての事情がうなずかれたのだった。
 人柱! ありえないことではない。
 どこかの壁へ、このわたしとお美夜を生きながら塗りこめて……そういえば、思い当たるふしだらけである、あの鹿沼新田《かぬましんでん》の関所で捕まったとき、母娘《おやこ》かということを、あんなに念をいれてきいたのも、さては、母と娘の人柱が必要であったのだ!
 今はこうしてここに、自分たちを飼っておいて、そのときが来るのを待っているに相違ない。
 血ばしった眼で、空《くう》をにらんだお蓮様は、
「お美夜! サ、しっかりして……!」
 と、思わず、小さな肩を握りしめていた。

       八

 これですべてが読めた!
 お蓮様はやつぎばやに、お梶へ向かってうなずくと、そのわかったという意味が、聞こえぬ耳にも通じたとみえ、お梶はニッコリするとともに、さきほどからの手真似話に精根つき果てたとみえ、ベッタリそこへくずおれてしまった。
 父の作阿弥に会うことができれば……。
「それさえできれば、なんのおそれることもないのだけれど――」
 口をついて出るお蓮様のひとり言を、折りから檐《のき》を暴風雨《あらし》の轟音《ごうおん》が、さらうように吹き消す。
 お梶は死人のように、着物で顔をおおって、からだを丸くして畳に倒れたままだ。
 作阿弥に会いさえすれば――だが、自分をとりまく多勢の下役人たちは、上役から、狂人だからそのつもりでと言いわたされているので、なんと頼んでもむだなことは、このあいだからの努力で、わかっている。
 かりに、今夜のこの闇と雨風に乗じて、この家をのがれ出るにしても。
 このまわりがあれほど厳重にかためてあることは、誰よりもお蓮様が、いちばんよく知っている。
 それに。
 日光造営中、山を取りまく四十里のあいだにいくつとなく関所が設けられて、文字どおり蟻《あり》のはい出るすきもないのだから、足弱の自分が子供を連れて、この山道をどうして脱け出すことができよう!
 お蓮様は、ギュッと、痛いほどお美夜ちゃんをだきかかえ、眼をすえ、唇をかみしめて……助かる方法もがなと、せわしい思いが頭の中をかけめぐっている。
 その、狂気のような、人相の変わった母の顔を、お美夜ちゃんは下から、あどけなく見あげて、
「母ちゃん、お梶は眠ってしまったよ。こんなところでうたた寝をして、風邪を引くといけないわねえ」
「ええ、そう……」
 答える心もうわの空に、お蓮さまがじっと考えこんでいると。
 どんな暴風雨《あらし》の最中にも、ピタリと物鳴りが止んで、ぽつんと切り離されたように音のしない、ふしぎな、無気味な瞬間があるものです。
 今がそれ。
 雨も風も、急に暴威をおさめて、もみ抜かれた樹々、はためきわたっていた家が、にわかに、はたと鳴りをしずめると、暗い地獄へおちこむような静寂。
 そのしずけさの底に、淙々《そうそう》と水の流れる音がする……のは、この家の裏からおりた谷間《たにあい》にささやかな渓流のあることを示しているので。
 毎日、昼間お蓮様は、縁のはしに立って、はるか眼下の杉の根を洗う、この小流れを見おろしたことを、彼女は、いま思い出した。
「そうだ! 運を天にまかせて――それよりほかに方法《みち》はない」
 ひとり胸に答えたお蓮様が、あちこち室内へ走らせた眼に、とまったのは、お梶が床の間に活《い》けてくれた花|籠《かご》である。
 秋の七草をいけたあの籠の中には、竹筒が入っている。そうだ!
 お蓮様は裾を乱して、片隅の文机《ふづくえ》の上の硯箱《すずりばこ》と、料紙《りょうし》入れへかけ寄りながら、
「お美夜! お前に、こんなことをさせたくはないけれど、二人の命の瀬戸際だからね。今母ちゃんがお手紙を書いて、あそこの竹筒へ入れるから、お前はそれを持ってこの裏山づたいに谷川へ――いいかえ!」

   御代参《ごだいさん》


       一

 宇治道中の茶壺駕籠を、荒しに荒して、東海道に白い旋風が渦《うず》まくとまでの評判をたてた丹下左膳。
 いくつとなく壺を手がけても、めざすこけ[#「こけ」に傍点]猿の壺には、まだ見参しない。
 壺中の天地、乾坤《けんこん》の外《ほか》。
 一つ事に迷執《めいしゅう》を抱き、身、別世界にある思いの左膳は、朝夕夢のこけ[#「こけ」に傍点]猿《ざる》を追って、流れ流れてふたたび江戸へ……。
 第二の故郷。
 白髪、江《こう》を渉《わた》り、もとの路をたずぬ。何年も江戸を明けたわけではないけれど、しきりに、そんな気がしてならない。
 山野、街道の砂ほこりにまみれ、人血の飛沫《ひまつ》に染んだ例の白衣《びゃくえ》に、すり切れた博多の帯を、それでもきちょうめんに貝の口にむすび上げ、ずしりと落とし差した妖刀|濡《ぬ》れ燕《つばめ》の重み――。
 抜けあがった大たぶさを、ぎゅっと藁でしばった変相妖異のつらがまえ。
 竹の棒のように痩せさらばえた長身の、片ふところ手……とことわるまでもなく。
 かた手ははじめッからないんだったッけ。
 しかめッつらに見えるのは、右眼をつぶしてななめに走る刀痕のゆえ。
 ニュッとあごをつき出し、幽霊のように蹌々踉々《そうそうろうろう》と歩きながら、口の中につぶやいてゆくのを聞けば、
「燕雀何徘徊《えんじゃくなんぞはいかいせる》、意欲還故巣《いはこそうにかえらんとほっす》――か」
 がらにないことをブツクサ口ずさんで、
「おい左膳、こうして手ぶらで江戸へけえってきたところをみると、おめえも、よっぽど里ごころがついたのだろう」
 自分を相手のひとり言。一歩ごとに濡れつばめの鍔のゆるみが、カタコト鳴るのが、「人が斬りてえ、アア人が斬りてえ」――というように聞こえるので。
 チョビ安の野郎は、どうしたろう?
 柳生源三郎は? 萩乃は?
 と、想うことは山のよう……とにかく、自分に会う前にチョビ安がいたという、あさくさ竜泉寺のあのトンガリ長屋とやらへ行ってみたら、ことによったらその後のようすがしれようもしれぬ。
 という肚《はら》。
 品川宿から江戸入りした左膳は一直線に八百八町を横ぎろうと、今しさしかかったのが、この上野山下の三枚橋です。
 ちょうど真夜中のこと。
 お山の森のうえに、うすぼんやりとした月がかかって、あたりにただよう墨絵のような夜の明かり。
 両側の商家は、ドッシリと大戸をおろし、天水桶に大書した水という字が、しろじろと見えるそばに、犬が丸くなって寝ている。
 何か事ありげな晩だった。
「ヤヤッ! この深夜に駕籠が……」
 いま、三枚橋に片足かけた左膳の一眼に、ぽつりと映ったのは、正面、上野の山をおりてこっちへやってくる一丁のお駕籠です。
 四、五人の高股《たかもも》だちの侍が、前後を警備し、なんとなく世をはばかる風情が見える。
 真っ先に立ってくる提灯の紋――!
 見おぼえがある。あれは確かに、柳生家の……。
 駕籠というと、ただちに壺を連想するのが、このごろの左膳だ。
「茶壺の駕籠ではあるめえか」
 そう思った。
 小みぞのそばに、柳の垂れ枝。そのかげに身をひそめた左膳が、近づく駕籠を半暗《はんあん》にすかして見ると――蝋色《ろういろ》鋲打《びょうう》ちの身分ある女乗物。
 と! 闇に氷の光一閃。同時に、駕籠わきの一人が、ウウム! と肩口をおさえてよろめいたとき、
「待った! 気の毒だが、その駕籠に用がある――」

       二

「ヤッ! 狼藉《ろうぜき》者ッ!」
「人違いではないか。うろたえるな!」
「それッ、おのおの……」
 いろいろな声が一時にわいて、侍たちは、ぴたりと駕籠を背に、立ちならんだ。
 肩をやられた一人は、何か火急の用事のある人のように、タタタッと前のめりに、三枚橋を渡りきって、四、五間走ったところで、ぱったり倒れた。
 一同は、そっちを振り向く余裕もなく、
「名乗れッ! われらは柳生対馬守藩中……」
「おウ、その柳生の駕籠と知って用があるのだ!」
 すでに一人の血を味わった濡れ燕を、左膳は、ひだり手にだらりと下げて、よろめくように二、三歩、前へ出ながら、
「よウ、そ、その駕籠の中を一眼見せてくれ、壺でなかったら、おとなしく引き下がるから、よウ」
 と、しなだれかかるように、侍たちへ肩を寄せてゆく。うすく笑いながら――。
 内心に渦まく殺気を持てあまして、その一本腕がうずうずするとき、左膳はよく、こうした酔漢《よいどれ》のような態度をとるのだ。
 いわば。
 丹下左膳がもっとも左膳らしい危険な状態に達した高潮《こうちょう》。
 とも知らない一人が、
「たわけッ!」
 どなると同時《どうじ》に、フイと、おどるようなからだつき――足を開き、腰を沈ませたかと思うと、抜きうちに左膳の胴《どう》へ!
 刀身に、白く月が冴えた。
 どすッと、何か、水を含ませた重い蒲団を、地面へたたきつけたような音がしたのは、今の一刀が、みごと左膳の深胴《ふかどう》にはまったのか……。
 と見えた刹那。
 ひょろっと手もとへ流れこんだ左膳の体あたり、無造作に持った濡れ燕の柄《つか》が、その切っさきを受けとめて、かわりに、足をすくわれたように空《くう》に泳いでいるのは、かえってその斬りつけたひとり。
 ふしぎ!
 いつ濡れ燕が羽ばたきしたのであろう。
 今の重い音は、かれの上半身をななめに斬り裂いた濡れ燕の、血をなめた歓声だったのだ。
「来るかッ。オイ、来る気か」
 いっぱいにゆがんだ微笑を浮かべた左膳の顔を、月がぼんやり照らしだす。
 眼にもとまらぬうちに、同僚の二人まで失った柳生の連中は、浮き足《あし》だったのだろう。
「おおそうだ、これから切通しへ出れば、妻恋坂はさほど遠くはない」
「うむ、われわれの手にはちょっと負えそうもない。若殿源三郎さまを御加勢にお願い申して――」
 うまい逃げ口上もあったもので、一人がぱッとかけ出すと、残っていた三人ほども、一時にそのあとを追って、右側の軒下づたいに、本郷のほうへスッとんでゆく。
 こうなると、名代の柳生一刀流も、こうした下っぱになると、からきしだらし[#「だらし」に傍点]のないものとみえます。
 あと見送って含み笑いをした左膳が、血のしたたる濡れ燕をソッと地面に突き立てて、駕龍のそばにしがみ寄り、引き戸に手をかけたとたん、駕籠の中から、
「相変わらずだね、丹下の殿様、おひさしぶり、ホホホホホ――声でわかりましたよ」

       三

 声でわかりましたよ……という女の言葉が、駕籠の中から。
 左膳が、ギョッとして身を引いた瞬間。
 引き戸がなかからあけられて、闇に咲く大輪の花のようにたち現われたのは、御殿女中姿の櫛巻の姐御……あっけにとられた左膳の肩を、ポンとたたいて、
「まあ! 今までどこにどうして――会いたかったわ」
 と寄りそった。夜中にこっそり駕籠を急がせて来るのだから、テッキリこけ猿の壺……に相違ないと思ったのに、あらわれたのは意外にも女! しかも、駒形の尺取横町に残してきたはずのお藤が、こうした変わった風体《なり》で、柳生家の駕籠に乗っていようとは!
 おもしろくもないといった顔、不愉快そうに濡れ燕を鞘へ納めた左膳は、
「おめえか……えらく出世をしたものだなア、どういういきさつで、そんな身分になったのか知らねえが、おらあおめえには用はねえのだ。また会おうぜ」
 皮肉に口尻《くちじり》を曲げて言いはなった左膳、足早に歩きだした。
 櫛巻お藤には、相変わらずそっけない左膳でした。
「マア、お前さんのように、情の剛《こわ》い人があるかしら――わたしゃこうしていやな芝居をつとめる気で、こんな窮屈な思いをしながら、一日半時だってお前さんのことを忘れたことはないのに、ヒョッコリ会ったと思ったら、もうすぐ、ろくすっぽ話も聞かずに、そうやって行って
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