じゃアねえか。おいらはあいつ大きらいだけど――それに引きかえて、このチョビ安は、あわれなもんだ。いまだに父《ちゃん》にも母《おふくろ》にもめぐり会えねえのだからなあ」
 ションボリうなだれると、お美夜ちゃんはあわててなぐさめにかかって、
「どうしたんでしょうねえ。まさかお奉行様が、嘘をつくとは思われないけれど」
「お奉行さまがどうしたって?」
「いえね、いつか泰軒小父ちゃんに言いつかって、桜田御門外の大岡様のお屋敷へ、お壺を届けに行ったとき、何か御褒美《ごほうび》をやろうとおっしゃってくだすったから、あたいはなんにもいらないから、そのかわりに、こうこういうチョビ安兄さんという人の、父ちゃんや母ちゃんが知れるように、お奉行様のお力でお調べくださいって、あたいね、よくよくお頼みしてきたのよ。それがいまだに、なんのお知らせもないんですもの」
「フウム、そんなに思ってくれるとは、ありがてえ。かたじけねえ」
 多感のチョビ安、鼻をすすりあげながら、
「大岡か」
 と言ったが、これは、私淑《ししゅく》する泰軒先生の口まねです。
「奉行だけじゃアねえや。お美夜ちゃんも知ってのとおり、こないだ作爺さんが長屋を出るとき、あの田丸とかいう柳生の家老に、くれぐれも頼んでいったのも、その、おいらの親を探す一件だ。同じ伊賀の柳生というからにゃア、何かあたりがありそうなものだのに、今もってなんの便りもねえところを見ると、あの田丸のちくしょう、作爺さんやおいらをペテンにかけやァがったんだ。このチョビ安は、世間のやつらにみんな見すてられてしまったんだよ。なアお美夜ちゃん」
「アラ、そんなことないわ。でも、あんただったら、お爺ちゃんのことばっかり考えてるあたしの心が、わかってくれない?」
「ウム、わかるとも、わかるとも!」
「ネ、だからさ、あたし、あのお蓮さんという人に頼んで、お爺ちゃんのあとを追っかけて日光へ連れて行ってもらおうかと思うの」
 いくら産みの母親とはわかっていても、今になって、中途から飛び込んできたお蓮様を、お美夜ちゃんはどうしても母とは思えずに、
「お蓮さんという人」
 と、こう変な呼び方をしている。
「え? おめえが日光へ行くって? あの、お蓮の野郎と?」
「ほほほ、野郎はおかしいわ。ええ、あたし、いっそそうしようかと思うのよ」
「おい、お美夜ちゃん! おめえはいってえあのお蓮を、どう思っているんだい? 好きなのかい?」
 お美夜ちゃんは言下《ごんか》に、
「大きらいだわ。とてもお母ちゃんなんて思えないの」
「そんなら、いっしょに日光へ行くなんてよしねエ」
「だってサ、あたい、お爺ちゃんに会いたいんですもの」
 いつまでたっても同じ問答。

       四

 いつまでたっても同じ問答だから、チョビ安はお美夜ちゃんを、グイグイ引ったてて家へ帰って来ました。
 長屋には、もうすっかり灯がはいって、主人のいない作爺さんの家には、狭い水口でお蓮様が、かたことささやかな夕餉《ゆうげ》のしたくを急いでいる。
 人間って、気持の持ちようや環境ひとつで、こうも変わるものでしょうか。
 昨日《きのう》までは、剣術大名司馬道場の御後室様として、出るにも入るにも多勢の腰元にとりまかれ、妻楊枝《つまようじ》より重いものは持ったことのないお蓮様。
 源三郎への恋をあきらめ、丹波とともに仕組んだ道場乗っ取りの陰謀にも、ふいと思いを断った彼女。
 眼が覚めたように思い出したのが、何年となくこの長屋に置きざりにして、暑さ寒さの便りひとつしたことのない父なる作阿弥と、その手もとにあずけっぱなしの、わが子お美夜のうえであった。
 世をすて、何もかも振り切って、とびこむようにここへかけつけて来てみると、入れちがいに父の作呵弥は、日光御用に召し出されてしまう。
 しかも。
 わが子に違いないお美夜ちゃんは、いつまでたってもなじんではくれず、チョビ安という腕白小僧といっしょになって、白い眼を見せるばかり。
「あんたが悪いのじゃから、辛抱して母のいつくしみを見せにゃならぬ。いわば、自業自得というものじゃでナ」
 と、この、人情の機微をうがちつくした泰軒居士の言葉が、この際お蓮様にとっては、わずかのたよりになるのでした。
 それにつけても。
 なんという変わりようでございましょう。
 まるで別人。
 ここらの長屋のおかみさんといってもいいような、つっかぶりようで、引っつめの髪は横ちょに曲がり、真岡木綿《もうかもめん》のゆかたの襟に、世話ぶりに手拭をかけて、お尻のところにずっこけそうに、帯を結んだ姿。これを道場の連中に見せたら、なんというでしょう。
 貝細工のようだった指も、今は水仕事にあらくれて、
「サアサア、どうぞ。ええええ、先生は奥に――」
 と、ちょっと家内《なか》を振りかえり、
「奥と言ってもひとまたぎなんですが、おや、また先生は大の字に引っくりかえっておいでですよ。アノ、泰軒先生、屋根屋の銅義《どうよし》さんという人がお見えですよ」
 と取りつがれた銅義は、
「ぴらごめんねえ。あっしゃア、先生様にさばいてもらって、かかあのちくしょうを追ん出そうと思いやしてね」
 ズカズカあがりこんで、泰軒居士の前にピタリと膝を並べた。
 例によって、巷の身の上相談なので。
 このトンガリ長屋は、泰軒先生の徳風にすっかり感化されて、今ではトンガリ長屋とは名のみ、ニコニコ長屋になってしまって、江戸名物がひとつ減ったわけだが。
 このごろでは、先生の高名を聞き伝えて、こうして遠くから、人事相談を持ちこんでくるんです。
「おめえが泰軒てエ親爺《おやじ》かい。お初《はつ》に……わっしゃア深川の古石場に巣をくってる銅義ってえ半チク野郎だがネ。ひとつおめえさんに聞いてもらいてエのは、わっしゃあ性分で、鯖《さば》ア見るのがきれえだってのに、かかあの奴やたらむしょうにあの鯖てエ魚がすきでごぜえやしてね。きょうも鯖、あしたも鯖、どうも家風に合わねえから――」
「なあんだ、大変な人がとびこんできたな」
 泰軒が苦笑して、ムックリ起きあがったとき……。
「泰軒小父ちゃん、おいらも相談を持って来た」
 と、門口からチョビ安の声。

       五

 女房の不平をまくしたてようとする銅義を、傍《かた》えに押しやったチョビ安は、お美夜ちゃんの手を取って、二人並んで泰軒先生のまえにすわった。
「おじちゃん! 聞いてくんねえ」
 泰軒居士は、口をひらく前に、例によってその関羽《かんう》ひげをしごく。
「なんじゃ、安。いま来客中じゃ。あとで言いなさい」
「なんでエ! 相談のお客さんなら、おいらだってお客さんじゃアねえか」
 とチョビ安は、小さな膝をすすめて、
「このお美夜ちゃんが、わからねえことを言ってきかねえから、ひとつ小父ちゃんから、納得のいくように説き聞かせてもらおうと思って……」
「オヤ! チョビ安、もうお美夜ちゃんと夫婦げんかとは、すこし早いぞ、ははははは」
 銅義はすっかりお株をとられた形で、キョトンとして聞いている。
「お美夜ちゃんはお蓮さんといっしょに、日光へ行きてえというんだよ、作爺ちゃんのあとを追っかけて」
 とチョビ安が言った。
 それを聞くと、台所にいたお蓮さま、何を思ったか濡れ手をふきふき、ころがるようにそれへ走り出て、
「お美夜、おまえそれはほんとうかい? おお、よく言っておくれだ。わたしも、お祖父《じい》ちゃんとあんなあわただしい別れ方をして、気になってならないんだよ。ねえ、泰軒先生、後生ですから此児《これ》と二人で、日光へ行くことをお許しくださいまし」
 意外な助け船に、お美夜ちゃんはたちまち眼をかがやかして、
「母ちゃんも、お爺ちゃんに会いたいの? じゃ、いっしょに行きましょうよねえ」
 お蓮様の眼から、みるみる大粒な涙がわいて、いきなり彼女は、しっかとお美夜ちゃんの手をとった。
「おう、ありがとうよ、ありがとうよ。はじめて母ちゃんと言っておくれだねえ。わたしはそれを聞いて、もうもう……いつ死んでもよい」
 ほうり落ちる涙が、だき寄せたお美夜ちゃんの顔へ。
 お美夜ちゃんは気味わるそうにびっくりしたようすだったが、
「ええ、あたい、だんだん母ちゃんのように思ってきたわ。だからいっしょに泰軒小父ちゃんにお願いして、ねえ、早く日光へ――」
 チョビ安はポカンと口をあけたまま、あっけにとられて、このありさまを見守っています。
「それじゃア、わっちは出なおしてきやすから、ヘイ」
 引っこみのつかなくなった銅義、こそこそ框《かまち》へにじり寄ると、そこでチョビ安とお辞儀をして、出て行ったが、誰ひとりそれに気のつくものもない。
 じっと眼をつぶって、考えこんでいる泰軒先生、
「安大人《やすたいじん》」
 と静かに声をかけて、
「これをとめることはできまい」
「エ? するとなんですかい、お美夜ちゃんとお蓮さんを、日光へ出してやろうとおっしゃるんで?」
「父同様に育ててくれた祖父《そふ》に、一眼会いたいというお美夜坊のまごころ――また、不孝をしつづけてきた老父に、最後の詫びを願いたいというお蓮どのの赤誠《せきせい》。このふたつがいっしょになったのでは、どう考えても、それをとめる力は人間にはないぞ、チョビ安」
「なに言ってやんでエ、泰軒坊主メ! なら、おいらもいっしょにゆかア」
 とチョビ安は、ぐいと眼をこすった。

       六

「そううまく鴨《かも》が引っかかればよいがのう」
 六尺棒をトンと土について、こう言ったのは、この関所をあずかる柳生の役人の一人、津田|玄蕃《げんば》というお徒士《かち》。
「そうさの。こうして日光御造営が始まって、周囲四十里、お山どめになってからは、人別のきびしいことは天下周知のことだから、なにも今頃ノコノコ母娘《おやこ》連れで、この騒がしい日光へ出かけてくるものずきも、ないであろうテ」
「それはそうだとも。これでまた、お山を越えてどこかへ通ずる街道筋ならまた格別、ほとんど日光へ行くだけの日光街道、思うとおりに、母娘の人柱が網にかかってくれればよいけれどもなあ」
 杉の木立ちのあいだに、ものものしい竹の矢来《やらい》を結びめぐらし、出口入口には炎々《えんえん》たる炬火《かがりび》が夜空の星をこがしています。
 この日光御修覆のあいだだけ、登晃口《とこうぐち》のひとつである鹿沼新田《かぬましんでん》に、あらたにできたお関所です。
「いったい誰が言い出したことだ。護摩堂の壁に、母娘の人柱を塗りこめねばならぬなどとは」
「シッ! 声が高い。この御修営がとどこおりなく終わることを祈願されて、殿が思いつかれたということじゃ」
「イヤ、誰が言い出したにしろ、そんなことはいっこうかまわん。拙者等は役目として、人柱にもってこいの母娘二人連れをとらえさえすればよいのじゃ」
 往来はシンとして、旅人の姿もないままに、関所役人たちはワイワイ雑談にふけっている。
 雲の裏に、ドンヨリした月があるかして、白い粉のような光が立ち木のこずえ、草の葉の露に浮動しています。
 その篝火《かがりび》のかげに、役人どもの顔が赤鬼のように、遠く小さく映《は》えているのを、はるかかなたから望み見ながら、疲れた足を引きずって、このとき、関所へ近づいてくる大小二つの女の姿がある。
 旅のこしらえに細竹の杖をついた、母らしい人は、片手に、女の子の手を引いて歩きながら、
「くたびれたろうね、お美夜。足が痛くはないかえ?」
「いいえ、あたいね、お山へ連れてゆかれたお爺ちゃんのことを思うと、足の痛いのなんか、忘れてしまうの」
「マアそんなにねえ――お爺ちゃんにそんなになつくまでの長いあいだ、あたしは母でありながら、このかあいいお前をうっちゃっておいたんだったねえ」
「お爺ちゃんはネ、いつもあたいに、お前の母ちゃんは人非人《ひとでなし》だって言っていたよ。だからあたし、ちいちゃいときには、あたいの母ちゃんは人間じゃないんだと思っていた」
「もうそんなことは言わないでおくれ。だけど、ほんとうにそう思われても
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