思い出しながら、
「御公儀が、この二十年目ごとの日光お直しを思いつかれたのは、それからじゃそうな」
「ハッ、まさにそのとおりで」
あとを受けついだ主水正は、指を折って数えて、
「正保《しょうほう》二年、承応三年、寛文四年九月、延宝七年……と、ちょっと数えましても、実におびただしい御修覆の数々。ところで、そのいずれの場合にも、まずいちばん先に損じてお手入れの必要を生ずるのが、いつもきまってあの護摩堂の北側の壁――」
「こんどもそうだということです。で、日光役人はたえずその護摩堂の北側の壁に気をつけておって、そこが破損しかけてくると、いよいよ他の部分も大々的につくろいをほどこさねばならぬ時期が来たことを知り、ただちに江戸表へ具申して、そこで、あの、城中大広間の金魚|籤《くじ》となり、そのときの造営奉行をとりきめるという、こういう手順だそうで」
「実に面妖な話じゃ」
対馬守の眼が、キラリと光った。
三人をつなぐ、三角形の中点に置かれた燭台ひとつ、そのうつろいをうけて、三つの顔は、赤鬼青鬼の寄りあいのよう……。
「なにかあの護摩堂の北側の壁に、たたりでもあるのでは……」
「サ、そこで、こんどあの壁へ人柱を塗りこんでは――という、この相談も持ちあがりましたようなわけ――」
六
何を思ったか対馬守は、大声に笑い出して、
「こんどのこの造営に際して、その問題の護摩堂の北側の壁へ、生きた人間を人柱に塗りこめねばならぬ……と言い出したのは、いったい誰じゃ?」
別所信濃も主水正も、答えません。
シンと無気味な静寂が、この狭い密室に落ちる。
「昔から人柱は、言い出した者へ当たると申すことだぞ。主水、お前ではないか、さようなことを言いはじめたのは」
ギョッとした主水正、このあいだ妻恋坂の司馬道場で、峰丹波に斬りつけられたときよりも、もっとあわてて、
「ト、とんでもない! 私がなんでそのようなことを!」
と、両手を眼の前に立てて、しきりに手を振る。
じっとみつめていた対馬守、意地の悪そうな微苦笑とともに、
「ソラソラ! その手が、壁を塗る手つきにそっくりじゃ。どうも主水、この人柱は其方《そち》へ落ちそうじゃぞ」
主水は真《ま》っ蒼《さお》になって、
「ジョ、冗談じゃありません」
と、ピタリと両手を膝へおろしてしまった。
これには、別所信濃守も微笑しながら、
「しかし、言い出したものが人柱に当たるということは、昔からよく例のあることで」
「さればさ」
対馬守は重々しく、
「出雲国《いずものくに》松江《まつえ》の大橋をかけるとき、人柱を立てることになったが、誰もみずからすすんで犠牲《にえ》になろうという者はない。そのとき、源助なる者が、着物に継ぎのある者を探して人柱にするがよいと言い出したところが、調べてみると、その源助の背中に横つぎが当たっていたので、いい出した源助が人柱に立てられ、これで、さしもの難工事も落成し、源助は死後長く橋桁《はしげた》を守っていまだに源助柱という名が残っておると申す。どうじゃナ主水正、貴様も、もう年に不足はあるまい。今になってたれかれと人柱を探すより、貴様、その護摩堂の壁へはいって、主水壁……イヤどうも、これでは語呂《ごろ》が悪い。田丸壁、ははははは、ひとついさぎよく人柱に立たんか」
「殿、御冗談が過ぎまする」
滅相もないという顔で、主水正が平伏するのを、別所信濃守は静かに見やって、
「イヤ、柳生殿、護摩堂の人柱は、婦人《おなご》と子供――それも、母子《おやこ》づれがもっともよいということで」
助かったように主水正は、顔を上げました。
「ソレごろうじろ。かかる老骨では、絢爛《けんらん》をきわめるかの護摩堂の人柱には、役だち申さぬ、アア助かった」
「さようか。女と子供、しかも、母子二人でなければならぬとナ、ハアテ……」
この護摩堂の天井は唐木《からき》の合天井《ごうてんじょう》になっておりまして、そこに親獅子《おやじし》仔獅子《こじし》の絵がかいてあった――今はないけれども――その母獅子のほうは、狩野秀信《かのうひでのぶ》の作。
仔獅子のほうは、秀信の子|狩野助信《かのうすけのぶ》の筆だと伝えられていた。
そのせいでしょうか、この護摩堂の壁に母子の人間を塗りこめなければ、こんどの大造営は成功しない……たれ言い出したともなく、今こういう話が持ち上がっているのです。
「それでは、通りがかりの旅人をひっとらえて、人柱に塗りこめるよりほかみちがあるまい。主水! そちに一任いたす。鹿沼新田《かぬましんでん》の関所に出張《でば》って、しかるべき母と子の旅の者を物色いたせ。極秘にナ――ぬかるまいぞ!」
母娘旅《おやこたび》同行二人《どうぎょうふたり》
一
「オウ、そこに立ってるのはお美夜《みや》ちゃんじゃアねえか」
こう声をかけたのは、片肌ぬぎに柄杓《ひしゃく》をさげた石屋の金さんだ。
このトンガリ長屋の入口に住んでいる人で。
今、この夕方、路地のまえに遣《や》り水と洒落《しゃれ》ていたところ……。
「おめえ、うすっ暗《くれ》えところにボンヤリ立ってるから、ちっとも気がつかなかった。オオオオ、足へ水をかけてしまったが、まっぴらごめんなヨ」
石金さんはそう言いながら、片手にさげた柄杓のしずくを切って、お美夜ちゃんのそばへ寄っていった。
あわい夢のような、紫のたそがれのなかに、白い大輪の夕顔とも見えるお美夜ちゃんの顔が、ボンヤリ浮かんでいます。
暑かった江戸《えど》の一日も終わって、この貧しいとんがり長屋にも、自然はすこしの偏頗《へんぱ》もなく、日暮れともなれば、涼しい夕風を吹き送るのでした。
何はなくとも、路地口のへちまの棚、近くの竜泉寺の椎《しい》の梢《こずえ》に、雨とひびくひぐらしの声。
仲店には、今宵《こよい》も涼みの人がにぎわい、町内のかどかどには縁台が出て、将棋、雑談、蚊やり――なつかしい江戸生活の一ページ。
水をまいていた石金は、今のひと柄杓《ひしゃく》が、したたかお美夜ちゃんの裾にかかったのにおどろいて、あやまり顔にそばへ寄り、肩へ手を置きながら、
「悪いおやじメだ。かあいいお美夜ちゃんに水をかけて、ヤア、こんなにぬらしてしまったナ。なア、かんにんしておくれよ……オヤ! おめえ泣いてるじゃあねえか」
顔をさしのぞくと、なるほどお美夜ちゃんは、パッチリした眼にいっぱいの涙です。
「水をかけたぐれえで、泣くもんじゃアねえ。と言っても、女の子のことだ。おべべをよごしたのが悲しいのだろう。ほんとにおいらが悪かった。サア、きげんをなおして家《うち》へけえんな」
無骨な石金が、一生懸命になだめるが、お美夜ちゃんは返事もしません。
大粒の涙がかあいい頬を、ホロホロつたわり落ちるのにまかせて、小さな石像のようにつくねん[#「つくねん」に傍点]と立ったまま。
ツクネンと立つたまま、じっとみつめています。血綿《ちわた》のような夕陽雲《ゆうひぐも》のただよう西の空を。
石金の言葉など耳にもはいらないお美夜ちゃん。足にしたたか水がかかったのも、てんで気がつかないらしい。
なんといっても黙っていたのが、しばらくして、たったひとこと。
「おじちゃん、お爺ちゃんは、あの雲の下にいるの?」
とききました。
石金はびっくりして、
「え? 作爺《さくじい》さんかえ、オオオオ、かわいそうにナア。お美夜ちゃんはそうやって、作爺さんのあとばかりしたっているのだなア」
「ねえ、おじちゃん、あの赤い雲の下が、日光というところなの?」
「ウウン、日光はナ、もっとずっと北のほうだよ」
と石金は手をあげて、暗く沈みかけている北の空を指さしながらひとり言。
「なるほどなア、産みの親より育ての親というくれえのもんだ。おふくろだというあのお蓮さんが急にけえってきて、木に竹ついだようにチヤホヤしてみたところで、お前はやっぱり、生まれ落ちるとから面倒を見てくれたあの作爺さんのことが、忘れられねえのだろう。無理もねえ、無理もねえ……」
二
フと、うしろにすすり泣きの声がする……ので、石金、ぎょっとして振り返ってみると!
チョビ安です。いつのまにここへ来たのか、真岡《もうか》のゆかたの腕まくりをして、豆|紋《しぼ》りの手拭をギュッとわしづかみにした小さなチョビ安が、お美夜ちゃんと石金のすぐうしろの、用水桶のかげに立って、
「えエイちくしょう、泣かしゃアがる」
その豆絞りで、グイと鼻の先をこすりながら、チョビ安、二人の前へ現われてきた。
「こう、石金の爺《とっ》つあん、まあ、聞いてくんねえ。おめえも知っての通り、あの作爺さんが柳生対馬の家老に連れられていってから、お美夜ちゃんはおめえ、食も咽喉《のど》へ通らねえ始末で、夜も昼も、こうして泣いてばかりいるんだよ。それを見ると、おいらも――おいらも、泣けてくらあ」
「ア、安さん、お前さんそこにいたの? いま石金のおじさんに聞いたんだけど、日光というのは、あの、ホラ、むこうの伊勢甚《いせじん》の質屋の蔵の上に、火の見やぐらが見えるだろう? あのやぐらの右のほうに、お魚の形をした小さな雲が流れているわね。あの下が日光なんだとサ。お爺ちゃんは、あそこにいるんだねエ。あたい、あの雲になりたい」
「アレだ」
とチョビ安は、ホトホト弱ったという顔で、石金を振りかえり、
「おウ爺《とっ》つあん、子供につまらねえことを言わねえでもらいてえ。おいらがなんとかして、忘れさせようとしているのに、爺つあんがそんなよけいなことを言っちゃア、お美夜ちゃんはますますセンチになるばかりじゃアねえか」
きめつけられた石金は、
「まあサ、おめえが来たから、おいらも安心したよ。ひとつ水いらずで、とっくりと納得させるがいいワサ」
言いすてて、家へはいる石金へ、
「何いってやんでエ」
と舌を出したチョビ安、
「サ、お美夜ちゃん、こんなところに立ってると、蚊に食われるよ。そんなに泣いてばかりいた日にゃア、黒瞳《くろめ》が流れてしまうぜ、ホラ、おいらを見ねえ……東西東西! 物真似名人、トンガリ長屋のチョビ安|太夫《だゆう》、ハッ! これは、横町の黒猫《くろ》が、魚辰《うおたつ》の盤台をねらって、抜き足差し足、忍び寄るところでござアい!」
ピョンとひとつとんぼ返りを打ったチョビ安、大道に四つんばいになって、泥棒猫のかっこうよろしく、おかしなようすでしきりにお美夜ちゃんの足もとをはいまわる。
お美夜ちゃんの悲しみをなぐさめようとの一心。
なんとかしてニッコリ笑わせようと、チョビ安一生懸命だ。
「サテ、おつぎはと――こけが刺子《さしこ》をさかさまに着て、火事へかけだすところ!」
自分で口上を言いながらの一人芝居だから、イヤそのいそがしいことといったら。
ゆかたの裾をスッポリ頭からかぶって、あわてふためいたしぐさでお美夜ちゃんのまわりを走りまわったが、
「オヤ! これでもまだ笑わねえナ。よし、それでは……と、アそうだ、こんどは、按摩《あんま》が犬にほえられて立ち往生の光景! ハッ!」
ポンと手をたたいたチョビ安、案山子《かかし》のような形にお美夜ちゃんの前につっ立ちながら、そっとうす眼をあけてうかがうと、お美夜ちゃんはそれを見もせずに、涙にぬれた眼をいぜんとして、北の空へ上げている。
「こんなに骨を折っても、どうしても笑わねえのかなア……ああくたびれちゃった」
チョビ安はべそをかかんばかり、ペチャンと往来にすわってしまった。
三
「だって、あたいがお父ちゃんのように思ってきた、あのお爺さんがすきなのは、当たりまえじゃないの」
とお美夜ちゃんは、やっと涙を拭いて、
「安さんだって、父ちゃんやお母ちゃんに会いたいって、いつもあの唄を歌うじゃないか」
そう言われると、今度はチョビ安がしょげる番。
だが、彼は、仔細らしく小首をひねって、
「そんなこと言ったって、おめえには、あのお蓮さんていう立派なおっ母が出てきた
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