ちに火消しに関するお触れ書を出す。
一、翌日より大工頭、下奉行等|社家《しゃけ》一同の先達《せんだつ》にて、御本社《ごほんしゃ》、拝殿、玉垣を始め、仮殿《かりでん》、御旅所《おたびしょ》にいたるまで残らず見分。
[#ここで字下げ終わり]
 こうなっております。
 建築事務所ともいうべき、仮りの造営奉行所へお帰りになった対馬守は、
「よいか。人夫は、おのおのその村なり町なりにおいて、宗門を改めてから出させねばならぬぞ」
 あの朝、峰丹波の一刀からのがれて、三十六計を用いた田丸主水正、早々林念寺の上屋敷へたち帰って申したことには、
「何やら、先方から苦情が出ましてナ、今朝の立ちあいは中止になりましたて。丹波めと源三郎様と、まだいろいろと論議しておられましたが、私は、そのままにして帰ってまいりました。あの分では、妻恋坂の道場では、まだ当分にらみ合いがつづくことでございましょう」
 などと、いいかげんな報告をして、殿の御前をとりつくろってしまった。
 そして、その翌々日。
 主君対馬守のお供をして、この日光の現場《げんじょう》へ向け、江戸を発足したのでした。
 へんてこな腰元として、対馬守様のお側近く使われている櫛巻のお藤姐御。さては、こけ猿の壺の真偽《しんぎ》鑑定役に、はるばる伊賀《いが》の柳生の庄から引っぱり出されてきた奇跡的老齢者、あのお茶師の一風宗匠、この二人をはじめ。
 それから。
 高大之進《こうだいのしん》を隊長に、こけ猿探索を使命とする尚兵館《しょうへいかん》の連中、これらは、まだ、まだ江戸の上屋敷に残されていて、一緒に日光に来ているのではありません。
 そこで。
 何しろ主君のすぐ下にあって、慣れない普請の指揮をするのですから、田丸主水、からだがいくつあってもたまらないほどの忙しさ。
「ええと、人夫は、二十五歳から五十歳まででしたナ。永銭《えいせん》で昼夜の手当、および昼飯料《ひるめしりょう》をくだされる……確かそうでございましたな?」
「知らん。其方《そち》よきにはからえ」
「それでは困ります。すべてこの御公儀のお仕事には、在来の慣例というものがござりまするで――さよう、日光山から四十里のうち、女子十三歳から二十歳までの者は、木綿糸一か月に一人につき一反分を上納させ、その村々の役人これを扱い、その糸を二十三歳から四十歳までの婦女子に与えて、これを一か月間に白布《はくふ》一反ずつ長尺《ちょうじゃく》に織りあげさせ、布《ぬの》の端にその村の地名を書き、それぞれ役人があずかりおいて、命令によってただちに駅送《えきそう》する。こうでございましたな? 実にどうもややこしいかぎりで……ところで、お関所のお手配は?」

       三

 今この主水正の言った、お関所というのは。
 日光|御作事中《ごさくじちゅう》、仮りにこしらえるもので。
 このときは、並木本村《なみきもとむら》、下幸村《しもゆきむら》、鹿沼新田《かぬましんでん》の三か所に、御造営中あらたに関所を設け、お先手衆《さきてしゅう》ひと組ずつ年《とし》番で勤めたものです。
 この制度は、箱根、笛吹《ふえふき》両関所に準じ、出入りとも手形割符を照らしあわせて、往来《ゆきき》を改める。
 なかんずく。
 五貫目以上の荷物は、たとえ官のものとはいえども、その品を改めるのが例定になっておりました。
 山王わきの普請奉行所には、正副両造営奉行を取りまいて、昼夜を分かたず、評定やら、打ちあわせやらに、眼のまわるようないそがしさ。
 書物役《かきものやく》が筆を耳にはさんで、広間をウロウロしながら、主水正の姿を探す。
「こうお山開きに手間どっては、お事始めは棟梁《とうりょう》だけ登山させて、式をあげるんでございましょうか」
 他の一人が、誰にともなく大声に、
「もう組分けは、すみましたかな? すんだら一|遍《ぺん》勢ぞろいをして、顔を見おぼえておかんことにはつごうが悪いテ」
「御家老殿も、先刻そのようなことをおっしゃっておられた。いちおう田丸どのにたずねらるるがよい」
「田丸様はただいまどちらに?」
「サア、殿の御前じゃろう」
 と、言いすてて、一人はいそがしそうに行ってしまう。
 この、組分けと申しますのは……。
 いろは[#「いろは」に傍点]の仮名文字で組を分けて大工二十五人に棟梁二人、諸職《しょしょく》五十人、雑役三十人、合わせて百七人を一組と定めて、これを印をつける。
 塗師《ぬし》、錺《かざり》職人、磨師《みがきし》、石工《いしく》なども二十五人一組の定めであった。むろん一同は山へ上がったが最後、頭《かしら》だったものは町小屋、諸職人は下小屋《したこや》に寝とまりして、竣工《しゅんこう》まで下山を許さないのです。
 もし工事中に、これらの者の家郷《かきょう》に不幸があった場合には、さっそく本人を小屋から出したのち、金剛《こんごう》、普賢《ふげん》両院の山伏をまねいて、そのあとを払いきよめることになっていた。
 そのほか、この日光御造営については、あらゆる場合に応じて、実にこまかいお定め書があったもので。
 やがて、この造営奉行所の表の間に、一枚の大きな掲示がはりだされた。所内を右往左往する人がドッと一時にそっちへかたまって行って、ワイワイ言ってあおぎ見ていますから、何かと思って読んでみますと……。
 今回の大修覆担当の諸職の貼り出し、
[#ここから4字下げ]
大工頭《だいくがしら》    甲良宗俊《こうらむねとし》
大棟梁《だいとうりょう》    辻内大隅《つじうちおおすみ》
屋根方《やねがた》    大柳築前《おおやぎちくぜん》
彫物棟梁《ほりものとうりょう》   作阿弥《さくあみ》
画方《えがた》     狩野洞琢《かのうどうたく》
塗師《ぬし》     推朱《すいしゅ》平十郎
錺方《かざりがた》     鉢阿弥山城《はちあみやましろ》
鋳物師《いものし》    椎名兵庫《しいなひょうご》
[#ここで字下げ終わり]
 このとおり、当時の名人巨匠を網羅した中に、ちゃんとわがトンガリ長屋の作爺《さくじい》さんが加わっているのだ。
 このほかに。
 本社《ほんしゃ》は大工が誰で、蒔絵《まきえ》が円斎《えんさい》、拝殿、玉垣《たまがき》、唐門《からもん》、護摩堂《ごまどう》、神楽殿《かぐらでん》、神輿舎《みこしや》、廻廊、輪蔵《りんぞう》、水屋《みずや》、厩《うまや》、御共所《おともじょ》……等、それぞれ持ち場持ち場にしたがって、人と仕事がこまかにわかれている。
 ちょうどこのとき。
 この造営奉行所の奥深く、人を遠ざけてたった三人、五|徳《とく》の脚《あし》のようにすわっている影があった。

       四

 人柱《ひとばしら》ということがあります。
 今この言葉は、単に、犠牲とか身を埋め草にするとかいう抽象的な意味に使われていますが。
 むかしは実際にあったのです。この人柱ということが。
 もっとも、確かな史実が残っているわけではないが、各地方のいろいろな伝説や口碑《こうひ》で、事実、人ばしらのことがおこなわれたと信ずべき節があるのです。
 大建築や大土木工事の場合に、あるいは土台をかためるために、あるいは、迷信から来て神の意を安んじようという心から、生きた人間を柱の根へ打ちこんだり、橋杭《はしくい》をだかせたまま河へ沈めたりする……これを人柱という。
 なかでも、有名なのは――。
「雉子《きじ》もなかずば射たれまい」の長柄川《ながらがわ》の故事で、これは誰でも知っていますが。
 弘仁《こうにん》のころとか、長柄川に橋をかけようという大工事です。何千という人夫、大工を使い、幾万の費用をつぎこんでも、濁流とうとうと渦まいて、水の力はおさえるべくもありません。さかまく水勢をながめて、拱手《きょうしゅ》傍観のありさま。
 橋はいつできるかわからない。
 赤手空拳《せきしゅくうけん》の人間力と、自然とのたたかい――あふれんばかりの大河をはさんで、木材や石をかついだ烏帽子《えぼし》水干《すいかん》の人たちが、蟻《あり》のように右往左往する場面を想像してください。
 すると……。
 誰いうとなく、水神《すいしん》に人柱をささげねば、橋はとうていかかりっこないという噂が、両岸の群集のあいだにとんだのです。
 そこで。
 この人柱になるべき者をとらえるために、関所を設けて、長柄《ながら》の役人が詰めているところへ、たまたま通りかかったのが垂水村《たるみむら》の岩氏《いわうじ》という人。
「なんの騒ぎです」
 と人々にきいた岩氏は、よせばいいのに、
「ははア、それはなんでもないことじゃ。袴《はかま》に継《つ》ぎのある者を見つけだして、それを人柱にすればよい。なんと名案であろうがな」
 と言った。
 いいだしたものが当たるというのは、よくあることで、袴のつぎとはおもしろい思いつきだというので、一同がめいめいの袴をあらためてみると。
 なんと! 岩氏自身の袴に横継ぎがあった。で、否応《いやおう》なしにつかまえられて、岩氏はこの長柄川の人柱にされてしまったのです。
 この岩氏の娘に、非常な美人があった。父の弔《とむら》いに大願寺を建て、一生孤独で終わろうとしたのだったが、その並みならぬ容色にこがれて言いよる若者のうちで、ひときわ熱烈なひとりの情にほだされて、河内《かわち》の禁野《きんや》の里に嫁《か》したのです。
 しかし、父の最期にこりて、口はわざわいのもととばかり、かたく口をとざして唖《おし》でおしとおしたので、いくら惚れた男でも、これでは人形といるようでおもしろくない。
 結婚解消……となって、女は垂水《たるみ》の実家へ送り帰される途中――。
 交野《かたの》の辻《つじ》という野原があります。そこへさしかかると、鳴いて飛びたった一羽の雉子《きじ》が、あわれにもかりうどの矢に射おとされるのを見て、娘は父の悲しい思い出を連想し、駕籠《かご》の中から、
「物言はじ父は長柄の人柱、なかずば雉子も射たれざらまし」
 有名なおはなしでございます。
 さて、今この日光造営奉行所の奥の一間には――。

       五

「物言《ものい》はじ父は長柄の人柱――」
 この歌をよんで泣いた女の心をはじめて知った良人《おっと》は、そうであったか、あの父の死を悲しんで唖を通していたので、自分に情のないわけではなかったのかと、もとの鞘《さや》におさめて、あと仲よく暮らし、その交野の辻には雉子|塚《づか》を作り、三本の杉を植えて長く記念にしたという。
 そのほか、人柱の伝説は、諸国にたくさんつたわっております。
 そこで、今。
 山王《さんのう》わきの日光修営奉行所の奥の奥、壁の厚い一間に、三人の人影が黙然《もくねん》と腕をこまぬいている。
 壁の厚いのは、密談のもれ聞こえるのを防ぐためで、工事の進行程度、経費の件その他に、この日光造営にはいろいろと秘密が多かったところから、奉行所には、かならずこうした密室が一つ二つ造られたもので。
「それでは――」
 と言いかけて、ものおじしたように他の二人の顔を交《かた》みに見くらべたのは、お畳奉行別所信濃守。
 蒼白《そうはく》の額に、深い縦じわをきざんで、暗く沈んだ声なのは、よほどの重大事を議しているらしい。
 かすかに眼を上げて、別所信濃の言葉の先を待っている二人とはいうまでもなく、柳生対馬守と、家老田丸主水正。
 何やらものものしい空気が、その、しめきってムッとする室内に、こもっています。
「護摩堂《ごまどう》の壁へ――という話であったが――?」
「は」
 主水正と対馬守は、チラと眼をかわしたが、すぐ対馬守が、ひとり言《ごと》のようにつぶやきつづけて、
「かの有名なる寛永の御造営は、永久の策としてもろもろの計画があったのじゃったが、完成のあかつき、その結果はすべて裏ぎられて、そののちたびたび修繕を加えねばならぬこととなったのじゃ」
 と対馬は、こんどこの、日光をお引き受けするについて、家臣を督《とく》して調べさせた日光修覆に関する文献をボツボツと
前へ 次へ
全43ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング