理すべしとな」
安積老人は、殿様のお裾をつかもうとするように、手をさしのべておいすがった。
「もとより、そのお考えなればこそ、今まで種々大事件が出来《しゅったい》いたしましても、なにごともお耳に入れず、無言の頑張り合いをつづけてきたのでございますが、明日《あす》こそは丹波を斬って、源三郎様が道場の当主にお直りになろうという瀬戸際……どうしても先方では、判定がなくては立ちあいせぬと申しておりますので、ホンの型《かた》だけ、お顔をお出しくださるだけで結構なのでございますが」
「真剣の果し合いに、判定も何もあるものか」
「もちろんでございます。そこがソノ、峰丹波の逃げ道でございまして、立ちあいなくしては、他流とはいっさい仕合いせぬというのが不知火《しらぬい》十方流の条規だと申したてて、一寸のばしに、逃げを張っておりますわけ。殿様がお立ちあいくださらば、丹波めは、仕合いを忌避する口実《こうじつ》がなくなりますので、なにとぞ源三郎様のために、御承諾くださいますよう……殿、まッ、このとおり、爺からもお願いいたしまする」
不審顔の対馬守、
「それにしても、なぜその審判役を、余《よ》に持ってまいったか、それがわからぬ」
「それは、その、自分よりも、また、源三郎様よりも、腕の立つお人の立ちあいがなければ……という、丹波の持ち出した条件なので」
「自分よりも、源三郎よりも、剣技において上の者が立ちあわねば、勝負をせぬとナ」
「峰丹波の偉いところは、おのれをよく知っていることでございます。おのれを知る者は、敵をも知る。自分が源三郎様に、とても及びもつかないことは百も承知。したがって、なんとかしてのがれようとの魂胆。おのれより強い者は、いくらもあるが、源三郎様の上に立つ人は、ちょっとない。そこで、こういう条件を持ち出せば、この判定者はなかなか見つかるまいという見越しでございます」
「ふうむ、それで余へ来たのだナ」
「さようで。いっぱし困難な条件を持ち出したつもりなのが、殿がお顔をお出しなされば、丹波はギャフンとなって、しかたなしに、明日《あした》の朝源三郎様に斬られて死にます」
「ははははは、イヤ、そうか、わかった。彼奴《きゃつ》の策の上を行くわけだな」
対馬守は、ややしばし考えておられましたが、
「行ってやりたいが……イヤ、私事じゃ。たいせつな日光御用をひかえ、心身を清浄に保たんければならぬ身が、そのかんじんの日光へ出発前に、みにくき死骸を眼にするようなことは、こりゃ玄心斎、さしひかえねばなるまいテ」
「しかしながら……」
「それに、暇がない。今夜|徹宵《てっしょう》別所殿と相談のうえ――」
対馬守がそこまで言いかけたときいきなり、外の廊下に声がして、
「殿はこちらですか。主水正でござります。ただいま、首尾よく作阿弥を説きふせて、つれてまいりました。溜りに待たせてございますが」
「オオ田丸《たまる》か、ナニ、作阿弥が出馬したと。それはそれは御苦労。大成功じゃったナ」
自分の用事はどこへかスッとんだかたちで、ポカンとしていた玄心斎へ、対馬守、何事か思いつかれたように、ニッコリすると同時に、
「爺、安心せえ……主水正、ちょっとここへはいって来い」
五
お蓮様には逃げられる。
源三郎からは、果し状をつきつけられる。
なんとかして、一寸のばしに逃れようと、立会人がなければと、笹の文を書き送ったのに対し。
望みどおり丹波よりも、源三郎よりも、一段上の大剣士が、審判に立つから……という笹の返事が、折りかえし源三郎から来た。
広い庭をへだてて、笹に結びつけた手紙が、二度も三度も棟と棟のあいだを往復したのち。
提出した条件がいれられたとなると、追いつめられたも同然の峰丹波、もはやなんの口実もない。
やがて、朝。
庭の小広い片隅に、源三郎についてきている伊賀侍どもが、ワイワイ言いながら仕合場《しあいば》のしたくをしているのを、峰丹波、こっちの部屋で、どんな心で聞いたことか。
ゆうべ一睡もしない血ばしった眼にこのほがらかな朝の訪れは、あまりに、残酷にさえ感じられる。
実際、瞳が痛いほどの、キラキラとした金色の旭《あさひ》です。
今となっても、丹波は、あきらめがつきかねる。
「あの伊賀の暴れん坊以上の腕ききが、そうたくさんあろうとは思われぬが、案に相違、簡単に承知して、判定人を出すと言うのだけれども、いったい何者であろうな」
オロオロした眼で左右をかえりみても、誰ひとり返事をする者がありません。
「心あたりはないか」
なにか、よけいな一人が、
「ことによったら事によるのでは……」
「なんだ、ことによったらことによるのでは――とは? なんのことだ」
「これは、ひょっとしますると、あの、隻眼隻腕の白い煙みたいな浪人が、飛び出してくるのでは……?」
丹波にとって、丹下左膳は伊賀の源三郎以上のにがて。
「アッ、そうだ! そうかもしれん。あいつがいることを思いつかなんだ。これはまったく、ことによったら事によるかもしれん。ウーム、とんだ藪蛇《やぶへび》!」
顔色を変えているところへ、
「おしたくがよろしければ――主人がお待ち申しておりまする」
いやなことを言って、源三郎のほうから使いが来た。
もう、やむをえません。
こうなると、さすがは峰丹波。スッパリと覚悟ができてしまった。あばれるだけあばれたうえで、機を見て逃げ出すだけのことだ!
たち上がった丹波、ふるえる手で袴のももだちを取りながら、白足袋のまま、明るい光のみなぎる庭へ下り立った。
肩をそびやかし、左手にさげた愛刀の鯉口《こいくち》を切って、足ばやに庭の隅へ――。
眼くばせした門弟達は、まるでお葬式に列するようにうちうなだれてゾロゾロつづく。
もと弓場のあったあとです。そこだけ立ち木がひらいて、地面にはバラッと砂がまいてある。
濃い影を土に落として、むこうの隅にガヤガヤたち騒いでいる伊賀の連中の中から、着流しに懐《ふところ》手をした源三郎が、例の蒼白い顔をゆがめて笑いながら、出て来ました。
「ながらく失礼つかまつった。今朝《こんちょう》はまたこの真剣勝負、さっそく御承引あってかたじけない」
皮肉な挨拶。
だが、峰丹波は、それに言葉を返すより、何よりも気になってならないのは、この源三郎よりも腕達者だという今日の判定役。
「お立ちあいは、どなたで――?」
と、そこらの人々へ眼を走らせた。
猫《ねこ》と鼠《ねずみ》
一
「うむ、その儀は――」
と源三郎が、いつになくつつましやかな真顔《まがお》で、ツと身を避けると……。
うしろに。
でっぷりした中年の侍が、威儀をただして立っている。
象のような細い柔和な眼、抜けあがった額部《ひたい》。両手をうしろにまわして、悠然たる殿様ぶり……。
大刀をささげたお子供小姓をしたがえ、小刀を前半《ぜんはん》にたばさんだ――柳生藩江戸家老、田丸主水正。
「兄でござる。兄、柳生対馬守……」
源三郎が、まじめくさった顔で、丹波に紹介《ひきあ》わせた。
そして、主水正へ、
「兄上、これなる御仁が当|不知火《しらぬい》道場の師範代――というよりも、ながらく拙者のじゃまをしてこられた、峰丹波どの……」
むろん名前は、日本国じゅう、いかずちのごとくとどろきわたっている伊賀の殿様だが、峰丹波、まだ眼通りを得たことがない。
対馬守のお顔は、知らないんです。
で、換え玉などとは、もとより思うわけもなく。
ギョッとすると同時に、丹波はくずれるように、土に小膝をつきかけた。
「ヤ? これは大先生にござりまするか。そうとも存ぜず、かかる異様のいでたちにてまかりいで……」
あわてて、袴の股立《ももだ》ちをおろそうとした。
「お見ぐるしき段、ひとえに御容赦を――手前は、ただいま源三郎様よりお言葉のありましたる、峰丹波と申する未熟者……」
「イヤイヤ! その御挨拶では、かえって痛みいる」
田丸主水正、なかなかどうして芝居気がございます。すっかり主君対馬守になりきって、鷹揚《おうよう》にそっくりかえっている。
ゆうべおそく。
やっとのことで作阿弥《さくあみ》老人の神輿《みこし》を上げさせ、トンガリ長屋からつれ出して、麻布の上屋敷へ引っ張ってゆくと。
この道場の源三郎のもとから、安積玄心斎が使者に来ていて、もうひとつ、主水正の命令《いいつ》かった役目というのが。
あろうことか、藩主対馬守に化けこんで、今朝《けさ》のこの源三郎対丹波の真剣勝負に立ちあうこと。
「余の顔を知らぬのだから、大丈夫だ。大名らしくふるまえばよい。そちなら勤まるであろう」
と対馬守がおっしゃった。
そのつもりで、いい気持になって来ている主水正、せいぜい一藩のあるじらしくかまえこんで、
「丹波とやら、マ、マ、立つがよい。今は、正式に眼どおりさし許しておるという場合ではない。余は、単なる判定者の資格でまいっておるのじゃ。余と思わず、一剣士と思うて、目礼だけにとどめておいてもらいたい。そうでないと、余が困る、うむ、余が困る。アッハッハ」
呵々大笑《かかたいしょう》しました。相当なものです。
立会人に、あの丹下左膳でも飛び出してくるのでは?……と、おっかなビックリでいた峰の先生、その左膳の上をゆく柳生対馬守があらわれたのですから、もうなんといってもこの試合を、のがれるすべはありません。
蒼白に顔色を変えて、
「大先生のお立ちあいとは、身にあまる光栄――」
と言ったが、よほど身にあまるとみえて、全身ががたがたふるえている。
二
猫と鼠……では、鼠は猫の敵でないにきまっている。
だが、しかし。
別の場合もあるので――世の中には、窮鼠《きゅうそ》かえって猫を噛むという言葉もある。
いまがその例のひとつ。
ちょっくらちょっとあるまいと、源三郎以上に剣腕《うで》の立つ人を立ちあいに……と、こっちが申し出たのに対して、望みどおりに、剣の上でも兄者人《あにじゃひと》たる柳生対馬守が、判定者!
もう、のっぴきならない。
と思うと同時に、峰丹波、今までふるえおののいていた鼠が、窮鼠《きゅうそ》になった。
どうせ助からない命!
ときまっている以上、すこしはパッと十方不知火流の精華《せいか》を発揮して……やっと武士らしい気持に立ちもどった。
のみならず。
うしろには、おのが弟子ともいうべき不知火流の門弟どもが、固唾《かたず》をのんでひかえているのですから、ここは丹波、いやでも死に花を咲かすよりほかない。
人間、死ぬ覚悟ができると、別人になる。
もろもろの物欲|我執《がしゅう》にとらわれていたのが、このごろの夕立のようにスッパリと洗い落とされて、一時に開くのです、心の眼が。
峰丹波、落ちついてきた。
で、今。
丹波はその新しい眼で、この柳生対馬守――家老の田丸主水正が殿様の役を買って出ている偽物《にせもの》とは丹波をはじめ不知火組は、それこそ誰不知矣《たれしらぬい》――のようすを、じっと見なおしました。
ところで、にせ物というものは、黙っていれば、それで通る場合が多いのですが、ほん物でないだけに気がとがめるせいか、とかくこの贋物《がんぶつ》にかぎって、いろいろと口が多い。よけいな言葉を吐く。
それに、田丸主水正は。
一時でも、この源三郎の兄となったことが、うれしくってうれしくってたまらないんです。
いつもは。
田丸の爺イ、田丸の爺イと、呼び捨てにされて、頭ごなしにどやしつけられてきた。箸にも棒にもかからぬ若殿様の伊賀の暴れん坊。
この一刻《いっとき》だけは、かりにもその源三郎を見おろして、きめつけることができるのですから、イヤ主水正、大人気もなく、ついいい心持ちになっちゃって、
「オイ、源三郎、早くしたくをせぬか」
「はい、兄上、ただいま」
と源三郎、ちくしょう! 田丸の爺め、あとで思いしらしてやる! と、心中に歯を食いしばりながら、近侍のすすめる白羽二重の襷《たす
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