りに事が運んだら、いずれは嬢《じょう》やとお父《とう》様を道場のほうにお迎えしようと……ほんとうにいつまでも、こんな裏長屋に置こうとは思っていなかったんですよ」
 作阿弥の駕籠を送って、長屋の人たちは、ゾロゾロ竜泉寺の通りに行列をつくってゆくらしい。トンガリ長屋は、急にひっそりとして、ここ、今は主なき作爺さんの住居《すまい》には、油のつきかけた破れ行燈《あんどん》のみ、黄っぽい光を壁へ投げている。その前にすわった泰軒、お蓮様、お美夜ちゃん、チョビ安の大小四人の影を、複雑にもつれさせて。
 大胡坐《おおあぐら》をかいた泰軒居士が、じっと眼をつぶっているのは、今、柳生対馬守の嘱望《しょくもう》もだしがたく、命を賭けて神馬の像を刻《きざ》もうと、このたびの日光造営にくわわっていったあの作阿弥を、こころ静かにしのんでいるらしい。
 人間は、こうも変わるものかと思うほど、すっかり別人のようにうちひしがれているのは、お蓮様だ。
 本郷の司馬道場では、このごろこそだんだん、あの源三郎一味におされぎみに、わが屋敷とはいいながら肩身がせまくなっているものの、それでも、椎《しい》たけ髱《たぼ》の侍女数十人を顎《あご》で使い、剛腹老獪《ごうふくろうかい》な峰丹波をはじめ、多勢のあらくれた剣士を、びっしりおさえてきたお蓮様だったが。
 それが、今の彼女は。
 髪はほつれ、お化粧《つくり》ははげ、衣紋《えもん》はくずれて、見る影もありません。まるで、このトンガリ長屋のおかみさんの一人のよう……。
「思うことは、何もかもくいちがうし、アア、たった一人の子供にまで、こんな愛想づかしをされて、わたしという人間は、この先――」
 そこまで言いかけたお蓮様、突如、つったちあがった。
 血ばしった眼で、お美夜ちゃんを見すえて、
「サ! おいで! 表に駕籠が待たしてある。お迎いに来たんだよ。いやだなんて言わせるもんか」
 もうひとつのお迎え駕籠……。
 すると、このときまでだまっていたチョビ安、街の所作事から帰ったままの着つけでいたが、肩の手拭を取って、いきなりねじり鉢巻《はちまき》をしだした。それから、おもむろに両手の袖をたくしあげ、クルッとお尻をまくって、ピッタリすわりました。
「エコウ! どちらのお女中か知らねえが、あこぎなまねアさしひかえてもれえやしょう」
 やり始めた。
 小さな兄哥《にい》さんが、まるまっちい膝をならべて啖呵《たんか》を切りだしたんだから、お蓮様はびっくりして、
「なんだい、おまえは! 子供芝居の太夫かい。ひっこんでおいでよ」
「ひっこんでいろうたア、こっちで言いてえこった。お美夜ちゃんはあっしの許婚者《いいなずけ》なんだ。そのあっしに一|言《ごん》の挨拶もなく、お迎《むけ》えの駕籠が聞いてあきれらア。さっさと消えやがれ!」
「そうだそうだ、安! これはおいおいとおもしろくなってまいったぞ」
 泰軒《たいけん》先生、手をたたいてけしかけている。

   たたく水鶏《くいな》


       一

 夜。
 ただいまでいう十二時。
 床脇《とこわき》の壁に、真っ黒な大入道がうごめいている……と見えたのは、峰丹波の四角な影。
「ウーム、不死身というのか、なんというのか、実にどうもおどろいたやつじゃ。あの、水の充満したはずのおとし穴を、いかにしてとびだしてきたものか――」
 と丹波のひとり言《ごと》。峰丹波の腕組み。丹波の思案投げ首です。
 ここは。
 妻恋坂なる司馬道場、不知火組のいすわっている広間だ。
 このあいだの夜、鎧櫃《よろいびつ》からとびだした丹下左膳のために、かなりのおもだった連中が斬られてしまったので、今この深夜の部屋に、短気丹波を取りまいている不知火十方流の弟子どもは、約二十人ばかり。佐々《さっさ》玄《げん》八|郎《ろう》、前山彦七、海塚主馬《うみづかしゅめ》、西御門《にしごもん》八郎右衛門、間瀬徹堂《ませてつどう》、等、等、等。
「しかし、おどろきましたな。私が見たときは、彼奴《あいつ》め、庭の下に立って、手ずから燈籠に灯をいれるところでしたが、夕闇のせまる庭に、誰やら立っている者がある。うしろ姿の肩のあたりに、見おぼえがござったでナ、ハッと思って、縁側から眼をすえていると、ふり返ってニタと笑った顔! 明りに片頬を照らしだされたのを見ると、死んだはずの伊賀の暴れん坊ではござらぬか。さてはこいつ、迷ったなと……」
 恐ろしげに声をふるわせて、そう話しているのは、まるくなった座の一人、海塚主馬だ。
 西御門八郎右衛門が、その名前のように長い顔を、いっそう長くさせて、
「イヤ、実にどうも、なんともかともおどろき入りましたテ。てまえは、源三郎めが不浄場から出て、手を洗っているところを遠くからチラと見たのですが、それでもうこの腰の蝶番《ちょうつがい》が、どうしてもいうことをききませんようなありさまで、不覚ながら障子につかまって、やっとおのおののところへ注進に来ましたようなしだいでござりまして――」
 言うことまで、いやにながったらしい。
 山のような角ばった前山彦七が、水銀でも飲んだようなしゃがれ声を出して、
「貴殿も幽霊と思われた組だな。どこをどうして助かったか知らぬが、あれから何事もなくずっと道場に暮らしていたような面《つら》つきでヒョコッと庭におりて水をまいていたのだから、まったくもって皮肉なやつで……まず拙者は、ひと目見るより早く、ペタリとすわった――」
「ハハア、腰を抜かして」
「イヤ、そう言ってしもうては、花も実もござらぬ。実は、下からすかして、彼奴《きゃつ》に足があるかどうか、それをたしかめようと存じたので」
「幽霊か否《いな》かをナ。なるほど、ときにとって思慮ぶかい御行動……」
 はや腰を抜かしたのが、ナニ、思慮の深いことがあるものか、仲間でほめ合っている分には、世話はない。
 冗談はさておき。
 あの漁師の娘、お露坊の嫉妬から出た注進によって、玄心斎その他が、あわてふためいて三方子川尻の六兵衛の家に駆けつけ、病後の源三郎を、即刻この道場の別棟《べつむね》へ迎い戻した。
 そうして帰ってきた源三郎が、前からここにいたように、日常茶飯事に託して自分の姿を、チラリチラリと不知火のやつらに見せたことは、この連中のあいだにこんな大恐慌《だいきょうこう》をもたらしたので。
 かくて、丹波を中心に、生残り組のこの大評定となったのです。
 このとき、外の廊下に、サヤサヤとやさしい裾さばきが、足ばやに近づいてきた。
「ア、お蓮様がおいでだ」
 一同は、いっせいにすわり直しました。

       二

「皆様、こちらにおそろいで」
 障子のそとの廊下に、小膝をついた女の声。佐々《さっさ》玄八郎が、いぶかしげな低声《こごえ》で、
「ヤ、お蓮様ではないぞ」
「アノ、そのお蓮様のことでござりますが……ごめんあそばせ」
 声とともに、静かに障子があいて顔を出したのを見ると、お蓮様づきの侍女、早苗《さなえ》です。
 玉虫色《たまむしいろ》のおちょぼ口を、何事かこころもちあえがせて、
「峰様におたずね申しあげます。お蓮様はどこへゆかれましたか、御存じでは?――宵の口から、何かひどくうち沈んでいらっしゃいまして、お夕餉《ゆうげ》のお膳をおすすめしても、食べとうないとおっしゃるばかり、お箸ひとつつけずに、そのままお下げになりましたが、いつのまにか、ふっとお姿が見えなくなりまして――」
「ナニ?」
 ギョロリと大きな眼を向けた丹波、この眼で、腰元などにはひどくおどしがきくので。
「そこここをおさがし申したであろうな」
「それはもうおっしゃるまでもございません。お部屋というお部屋はもとより、お庭のすみずみまで、わたくしども一同手わけをして……もっとも、鬼どもの住家《すみか》のほうへは、恐ろしゅうて近よれませんが」
 侍女どもが「鬼の住居《すまい》」と言っているのは、源三郎とその一党が、ふしぎな頑張りをつづけている同じ邸内の一角のことだ。
「フウム」
 丹波は思案に眼をつぶって、
「十五や十六の少女《おとめ》ではない。何かお考えがおありで、そっと戸外《そと》へ出られたものであろう」
「それにいたしましても、私どもへひとことのおことばもなく――何やらこの胸が、さわいでなりませぬが」
 額を青くしている早苗を、丹波《たんば》はうるさそうに見やって、
「大事ない。おっつけ御帰館になろう」
「でも、この真夜中にお供もお連れにならず、いったいどちらへ?」
「それは、わしにはわからぬ。なんだかこの二、三日、ひどくしょげ返っておられたよ。あの年ごろの婦人は、ふっと無情を感ずることがあるものだからな……」
 丹波もさびしそうな顔をしたが、気がついたように、大声に、
「いずれにしても、婢《おんな》どもの知ったことではない。こちらはお蓮様どころではないのだ。お末の者一同、さわがずと早く寝《やす》めと申せ」
「さようでございますか、それでは――」
 と、早苗は、あたふたとさがって行く。
 あとは、車座《くるまざ》になって一同が、不安げな顔を見合わせて、
「どうしたのだろう、お蓮様は」
「何から何まで、意のごとくならんので、ヒステリイを起こしたのでは……。」
 ヒステリイなどと、そんな便利な言葉は、その当時はまだなかった。女の言ったりしたりすることで、男のつごうが悪いと、世の良人《おっと》諸君はみんなヒステリイで片づけてしまう。これは、余談。
「生きている源三郎を見て、心境に大変化をきたしたのかもしれぬテ……オヤ! なんだ、今の音は」
 この言葉の最中に、皆は、庭へ向かった雨戸のほうへ、一度にふり向いていた。
 深夜だし、密議のことだし、しめきってある。
 ドン! と、その板戸に、何かぶつかる音がしたのです。たった今。
 たとえてみれば、人間が一人、力いっぱい体当りくれたような……。
「なんだろう、何者か立ち聞きをしていたのでは――」
「あけてみろ」
「イヤ、貴公《きこう》、あけてみろ」
「なにを臆病な……よし! わが輩があけてみる」
 と気おいだって、たち上がったのは、若侍の山脇左近《やまわきさこん》。

       三

 威勢よくつっ立ったものの、おっかなびっくり。
 だが。
 なみいる仲間の手前もある。いまさら引っこみのつかなくなった山脇左近、
「誰だッ?」
 叫びながら、端の雨戸を一枚引きあけた。
 ドッと音して吹きこむぬれた夜風。戸外《こがい》には、丑満の暗黒《やみ》につつまれた木立ちが、真っ黒に黙して、そのうえに、曲玉《まがたま》のようにかかっているのは、生まれたばかりの若い新月。
 人っ子一人、犬の仔《こ》一匹いません。
 照れかくしに左近は、若いお侍さん、小遊興《こあそび》のひとつもやろうというおもしろい盛りなので、意気ぶった中音《ちゅうおん》に、
「たたく水鶏《くいな》についだまされて……月に恥ずかしいわが姿……なんてことをおっしゃいましたッてね」
 武骨者ぞろいの道場には、ちょいと珍しい渋い咽喉《のど》を聞かせて、そのまま、ガタン、ピシャッ! 戸をしめようとすると、その雨戸のすき間に、つぶされたようにはさまっているものがある。
「なんだ、これは……」
 その、半分ほど座敷のほうへしめこまれているものを、足もとをすかしてよく見ると……。
 姫ゆりの花。
 風流です――と言ってはおられない。何者がなんのために、この部屋の外へ、姫ゆりの花などを持って来たのか?
 しかも、庭から忍んで。
 不知火の門弟一同、さっと丹波の顔へ眼を集めた、指揮を求めるように。
「左近、もう一度雨戸をあけて、その花を取ってみるがよい」
 そこで左近が、また雨戸の桟《さん》をはずし、一、二寸戸を引いて、すき間からその姫ゆりを抜き取ってみますと……果たして、茎に、一枚の紙片がむすびつけてある。
 誰かが庭づたいに来て、これを雨戸のすきへ押しこめたのち、ドンと戸をたたいて逃げて行ったのだ。
 どこから?――などと、きくだけ野暮。
 この庭のむこうに対峙《たいじ》している、
前へ 次へ
全43ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング