ったお蓮様が、ふと気がつくと、手桶《ておけ》をさげた源三郎、露草にぬれる裾を引きあげて、むこうへ帰ってゆく。
すると、です。
丹波の出ようひとつ、源三郎の合図ひとつで、一気に斬りかかろうと、隠れていたのであろう。そこらの植えこみや樹立ちの蔭から、伊賀侍の伏兵が、三人五人と立ちあがって、お蓮様には眼もくれず、源三郎のあとに従って行きます。
「きっとあの萩乃も、いま源様といっしょにいるに相違ない。もう……だめだ! すべては終わった!」
とお蓮様は、蒼白い唇でつぶやいた。
それきりそこの縁の柱にもたれかかって、襟に顎《あご》をうずめて考えこんでいる彼女――侍女の一人が、夕飯の迎いに来ても、首を振ってしりぞけたまま。
八
夕餉《ゆうげ》の膳部《ぜんぶ》もしりぞけて、庭の面《おもて》に漆黒《しっこく》の闇が満ちわたるまで、お蓮様はしょんぼり、縁の柱によりかかって考えこんでいたが――。
道場乗っ取りの策動も、もはやこれまで。
萩乃まで源三郎の手に取られてしまっては、もう自分のとる手段はどこにもない……。
失意。
身をはかなむ気持、無情の感が、時ならぬ木枯しのように胸深くくいいってくる。
どこにすがろう? いずこにこの心の慰めを求めよう――? そのとたん、人間たれしも思い浮かぶのは、肉親の情だ。
「ああ、ほんとうだ。こういうとき、あの児さえ手もとにいてくれたら、わたしは何もいらない。道場も、恋も――世の中のいっさいは、子供の愛にくらべたら、なんでもありはしないわ」
お蓮様がこんな気を起こすとは、よっぽど心が弱ったものと言わなければなりません。
外見《そとみ》は女菩薩《にょぼさつ》、内心《ないしん》女夜叉《にょやしゃ》に、突如湧いた仏ごころ。
お蓮様には、たった一人の子供があるのです。先夫とのあいだに。
その先夫のことは、さておき。
いったん気持が、わが子のもとへはしったお蓮様は、だいたいが思いたつと同時に、じっとしていられない性質《たち》。
そっと居間へ帰って、いくらかのお鳥目《ちょうもく》を帯のあいだへはさむがはやいか、庭下駄のまま植えこみをぬって、ひそかに横手《よこて》のくぐりから、夜更けの妻恋坂を立ちいでました。
子供というのは、どこにいる? お蓮様は、いったいどこへゆくのであろう?
「もう今年《ことし》は、七つになっているはず……同じ駕籠にあたしが抱いてどこかへ連れ出したら、どんなに喜ぶことだろう。このおなじ江戸に住みながら、往き来はおろか、たよりひとつしなかった罪を、お父様にとっくり詫びなければならない……」
口のなかにつぶやきながら、坂の上下を見わたすと、折りよく通りかかった一丁の夜駕籠。
お蓮様は白い手をあげて、それを呼びとめた。
「ヘエ、どこへゆきますんで?」
と駕籠屋がきいたが、ここで、場面はぐると大きく回転して、
「ヘエ、どこへゆきますんで?」
と溝板《みぞいた》を鳴らして、この作爺《さくじい》さんの家へ駈け込んで来たのは、おもての角《かど》に住んでいるこのかいわいの口きき役、例の石屋の金さん、石金さんだ。
ふたたび、とんがり長屋――。
「おらア湯にへえってたんだが、ガラッ熊の野郎が駈けて来やアがって、なんだか知らねえがりっぱなお侍さんが、素敵もねえ駕籠《かご》を持って、おいらの長屋の作爺さんを迎えに来たというじゃアござんせんか。イヤ、おどろいたね。どんなわけがあるにしろ、べらぼうメ、作爺さんをもってゆかれてたまるもんか――ッてんでネ、ヘエ、ぬれたからだのまんま、こうしてふんどしひとつでとんできやしたが、ああ、苦しい!」
一気にまくしたてる石金を先頭に、なが年おなじみのトンガリ長屋の住人たちが、ワイワイ言って作爺さんの土間へおしこんでくると!
「コラコラッ、下郎ども! 寄るでない。作阿弥先生に御無礼があっては、あいすまぬ。道をあけろあけろ!」
という田丸主水正のどなり声。
夢見るような顔つきの作爺さんが、その主水正のあとにつづいて、土間へ下り立とうとしている。
「お爺ちゃん、やっぱりゆくの?」
チョビ安とお美夜ちゃんの、ふりしぼるような声が追う。
作阿弥は、長屋の人たちの顔を見わたして、
「いかいお世話になりましたな」
と言った。
九
静かな中に、炎々《えんえん》たる熱を宿した作阿弥の姿は、つめたい焔のように、見る人の胸を焼きつらぬかずにはおかない。
ながらくひそんでいた芸術心に、点火された作阿弥。
もう現実に鑿《のみ》を手にしているように、右手を痙攣的に、ヒクヒクと動かしながら、せまい土間へたちおりた。
チョビ安とお美夜ちゃんへの愛に、うしろ髪引かるる思い……が、それも、一期《いちご》の思い出に名作を残そうとする、心のちかいの前には、たち切らざるをえなかった。
ひややかに主水正をかえりみて、
「まいりましょう。御案内くだされたい」
ここへ来るときは、いくら日本一の名匠だとは言っても、たかが手仕事の工人《こうじん》、たんまり金銀を取らせるといったら、とびついてくるだろうと思っていた田丸主水正。
いっかな動きそうにもない作爺さんを相手に、懸命な押し問答のすえ、やっと今、腰を上げさせることができたのだが、ああして話し合っているあいだに、主水正はすっかり、この裏店《うらだな》の見るかげもない老人の人柄に、気おされてしまったのでした。
気品といいましょうか。人間の深みといおうか。いずれにしても、身についた芸術のはなつ、金剛不易《こんごうふえき》の光に相変わらない。
「はっ」
と、思わず頭を下げた主水正、もうまるで従者よろしくの体《てい》で、
「先ほどより、お駕籠がお待ち申しあげておりまする。では、どうぞ……」
冷飯草履《ひやめしぞうり》を突っかけた作阿弥は、竹の杖を手に、一歩路地へ踏みだそうとした。
家のなかから土間、路地へかけて、長屋の人で身動きもならない。
「かわいそうに作爺さん、どんな悪いことをしたか知らねえが、あんな仏みてえな人だ、ゆるしてやればいいのに」
と、なかには何か勘《かん》ちがいして、作爺さんがお召捕《めしと》りにでもなったようなことを言うやつもある。ねいりばなをこの騒ぎにたたき起こされて、寝ぼけているんです。
「日光へ連れてゆかれるということだが、ときどきは長屋を思い出して、たよりをしてくだせえよ、ナア」
「ところが変わると、水あたりするというから、気をつけなさるがいいぜ、お爺さん」
別離は、このトンガリ長屋でさえも、いささかセンチだ。
上《あが》り框《がまち》に仁王立ちになった蒲生泰軒は、左右の手に、チョビ安とお美夜ちゃんの頭をなでながら、髯《ひげ》がものを言うような声で、
「蜀漢《しょくかん》の劉備《りゅうび》、諸葛孔明《しょかつこうめい》の草廬《そうろ》を三たび訪《と》う。これを三|顧《こ》の礼《れい》と言うてナ。臣《しん》、もと布衣《ほい》……作阿弥殿、御名作をお残しになるよう、祈っておりますぞ。お美夜坊と安のことは、拙者がどこまでも引き受けた」
泰軒居士、いつになくかたくなって、そう言ったときだった。
ドッと人ごみがどよめきわたったかと思うと、このトンガリ長屋の路地へ、また一丁、駕籠がかつぎこまれたのだ。
騒ぎたつ人々のなかへおりたったのを見ると、武家屋敷の若後家らしい、品のよい女性ひとり。
供も連れずに、何しにこの、夜の貧民窟へ?
と思ううち、女はすばやく人をかきわけて、作阿弥の前へ出た。
「あ! お父様、しばらく!」
「ウム、お蓮か――!」
その声をうしろに聞いたお蓮様、もうサッと家へ駈けあがって、アッというまにだきしめたのは、小さなお美夜ちゃんのからだでした。
一同はあっけにとられて、声もない。
十
「誰?」
と、お美夜ちゃんはいぶかしげに、お蓮様の顔を見あげながら、苦しそうに身もだえして、だきしめる腕のなかからすり抜けようとあせる。
雨のようなお蓮様の涙が、あお向いたお美夜ちゃんのかあいい顔へ、かかる。
「お母さんですよ。コレ! おまえの母者《ははじゃ》ですよ」
お蓮様はなおも懸命に、小さいお美夜ちゃんの骨がきしむほど、だきすくめようとするのです。
チョビ安はぽかんとして、
「こいつア妙ちきりんな芝居になったものだなあ」
泰軒が作阿弥へ、
「これは、どういう……?」
「娘《むすめ》なのじゃ」
と作阿弥は憮然《ぶぜん》として立ったまま、じっとお蓮様を見すえています。
浮き世の労苦を、幾十本の深いしわときざんだ顔には、感慨無量の色が浮かんで、
「わしの娘じゃが、某所へ腰元にあがったまま、ズルズルベッタリに後添《のちぞ》いに直ったのち、今日今夜までなんの音沙汰もなく――泰軒殿聞いてくだされ。このお美夜坊は、こいつが屋敷へあがる前にできた子供でござる」
急に作阿弥は、おそろしい眼つきになって、お蓮様をにらみつけた。
「今ごろになって、里心がついたのか。身がってなやつめ! 貴様《きさま》に子《こ》のかあいさがわかったところをみると、よほど悪い星にめぐり会って、世のはかなさを知ったものと見えるナ」
畳に手をついたお蓮様は、片手の袖口を眼へやって、
「どうぞ、何もおっしゃらないでくださいまし。頼《たよ》りになるのは、このたった一人の小さな娘だけ……ということが、わたしの胸にもハッキリ落ちて、それでこんなに、前非を悔いてまいりましたものを」
「苦しむがよい! いくらでも泣くがよい! はぶりのよいときは、同じ江戸におりながら鼻ひとつ引っかけるでなし、今になって――どうだ、お蓮! わしがお前に飲まされた煮え湯の味が、いま貴様にわかったか」
かさなる意外な出来ごとに、長屋の連中は潮が引くように、外の路地へしりぞいて、土間に静かに立っているのは、田丸主水正ただ一人。
ちょっとしんみりした空気のなかに、主水正の低声《こごえ》が、底強くひびいて、
「作阿弥殿、では、御出立《ごしゅったつ》を――」
「ただいま」
とふり向いて、お蓮様へ、
「貴様が、自分の栄耀《えいよう》に眼がくらんで、子をかまいつけなんだように、わしは、わし自身の芸術《たくみ》の心にのみしたがって、貴様のことなど、意にも介《かい》せんのじゃ。あとのことは、泰軒先生のお指図《さしず》を受けて、よしなにするがよい。コレ、チョビ安よ。お美夜坊の母親は、この人でなしだったのじゃよ。なんにしても、お美夜坊には母と名のつくものが一匹、現われたわけだが、こんどはチョビ安の両親じゃ。それにつけても田丸殿! この安の父母を、そこもとのお手でお探しくださるという条件で、わしは日光へまいりますのですぞ。かならずこの約定《やくじょう》を御失念なきよう……」
「あとをまかせられても、困るがナ」
泰軒は髯をしごいて、
「お蓮様とやらには、またいろいろと事情もあろうが、それはいずれ聞くとして、どうじゃな、お美夜坊。おまえはこの女《ひと》を、母と思うかの?」
きかれたときにお美夜ちゃんは、やっとのことでお蓮様をつきのけて、パッと泰軒先生の腰にとびついた。
「あたし、こんなよその小母《おば》さん知らないわ」
わッとお蓮様が、大声に泣きふすと同時に、
戸外《そと》にひと声、
「そうれ見ろ!」
この言葉を残して、作阿弥の駕籠は地を離れた。
十一
「何をいうんです、お美夜! こうしてお母さんがお迎いに来たのに、そんなことを言う児《こ》がありますか」
お蓮様は半狂乱に、手をのばして、またもお美夜ちゃんをだきとろうとする。
「いやよ、いやよ! あたいの考えていたお母ちゃんは、そんな恐ろしい人じゃないわ、知らない小母ちゃんがやってきて、母ちゃんだなんて言ったって、誰がほんとにするもんか。イイだ!」
「まあ、なんて情けないことを! 今このおひげの小父《おじ》さんがおっしゃったように、わたしは今までおまえを構いつけずにおいたのは、それはもう、いろいろとつごうがあってね。いえ、思うとお
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